26.5倍
中学校の友人に五年間いつも最末席で、さりとて落第もせず見事に卒業した男があった。これは毎年優等でぶっ通すよりも六ヶしい芸当だ。すこし勉強すれば席次がすぐ上がって了うし、一寸油断すれば落第する危険がある。
― 宮崎市定 「学海不窮」 (宮崎市定全集・23)―
今年になって入って来た3年生の男の子がいる。
なにやら、ぼーっとのんびりした子である。
その子によれば、
「先生は知らないでしょうけど、ぼくのいままでにとった一番いい点数は43点ですよ」
と言う。
むろん、そんなことは知らない。
「なかなかいい点数だな」
「え?いい点数ですか、これが」
真に受けている。
「いやいや、こういうときへんな大人はそう言うもんなの。
まあ、バカにしてるんだよ」
「そうなんですか」
「そうなんです」
などという会話を交わしていて、大丈夫かな、と思っていたが、五月の中間試験が終わったあと、その結果を聞けば、社会の点数がなんと2点だったと言うのである。
うーん、2点!!
ただものではない!
言っておくが、0点は誰だって取れる。
だが、2点を取るのはむずかしい。
自慢ではないが、かく言う私も高校時代、数学や物理で何度か0点は取ったことがある。
取るのはカンタンである。
名前と出席番号を書いて、あとは答案用紙の上にうつ伏せになっていればよいのである。
こうすれば、誰だって0点は取れる。
けれども、2点などと言う点数はなかなか取れるものではない。
念のために言っておけば、もちろんこれは100点満点の試験である。
2点を取るのは相当難しい。
「お前、いったい何が正解だったんじゃ」
「なんか、どっかの記号が一つ当たってたみたいです」
「というか、記号ぐらい適当に書いたって4択なら同じ記号書いても、もうちょっと当たるだろう」
「それが、うまくハズシちゃって」
「うますぎるな」
「ええ」
などという、塾とも思えぬ会話でみんなで大笑いしていたのが、まあ、5週間くらい前のことである。
それから、一カ月余りたって、期末試験が先週あった。
「おまえなあ、こないだの2点はないだろ、2点は。
ちゃんと社会のワーク、やれよ」
「ワーク?ですか?」
「ワークじゃ」
「持ってきてません!」
やけにキッパリ言い切る。
「持ってきてませんて、おまえ、明日、試験やぞ」
「でも持ってきても、ぼく、答えわからないし」
「あほかっ!家に帰って取って来い!」
戻って来た彼が持ってきたワークは新品のままである。
「ぼく、社会のワークって、実は、やるの初めてです」
なんだかうれしそうに言う。
「というか、ひらいたこともないんじゃろう」
「はい。はじめてです」
「まあ、ひらけ」
「あ、はい」
「そしたら、そこにはさまってる答えも引っぱり出して開けろ」
「え?まだ何も書いてないのにですか」
「ほーじゃ。第一待っとったっておまえ、答えわからんのじゃろう」
「たしかにそうですが」
「だから答えを見て、それを写せ」
「え?そんなことしていいんですか」
「いいもなにも、ほかに方法がないじゃろう」
「でも、そんなことして勉強になるんですか」
「なるんじゃ。
なるから写せ。
ほして、そこのページ写したらわしを呼べ」
「はい、わかりました」
実はこの子、言葉も丁寧だが字も非常に丁寧に書く。
よって、答えを写すのもなかなか時間がかかる。
字は美しい。
「先生、書きました」
5分ほどしてその子が言う。
「ほしたら、問題を声を出して読んで、答えも読め」
「19世紀のはじめ《ヨーロッパの火薬庫》と呼ばれていたのはどこか。―――バルカン半島」
「読んだら答えを隠せ」
「はい」
「もう一度問題を読んで答えを言え」
「19世紀のはじめ《ヨーロッパの火薬庫》と呼ばれていたのはどこか。―――バルカン半島」
「言えるやないか。
言えたら次の行に移れ。
そうやって、1ページ終わったら、もう一遍、頭から答えを言えるかどうかやれ」
「はい」
「それで、できるようになったら、またわしを呼べ」
「はい」
というわけで、その日2時間ばかりを彼は社会のワークばかりやっていた。
「いやあ、ぼく、こんなに続けて勉強したの初めてです」
なにやら誇らしげである。
「人間、生きとれば、初体験というものはいくらでもあるもんだ」
「そうなんですか。
でも、ほんとに、ぼく、こんなに続けて勉強したことないんですもん」
「まあ、結果が楽しみじゃなあ」
「ほんとに点数とれますかね」
「取れるじゃろ。覚えたんだから」
「明日まで、覚えてられますかね」
「そんなことは知らん。
不安やったら、うちでもういっぺんやっとけ。
というても、まあ、やらんじゃろうが」
「やりませんね」
とニヤニヤしながら彼は帰って行った。
さて、昨日がテストが終わって最初の塾である。
みんなの点数を聞く。
男ばかりのクラスである。
点数など人に聞かれても一向気にしない。
その子の番になる。
「ぼく、数学と英語と社会が返ってきました」
「おー。数学は」
「50点」
「おー、えらい上がったやないか。やるやないか!
英語は」
「12点でした」
「あのなあ、おまえ、この塾はふだん数学と英語しか教えとらんのよ。
意味のない授業やっとったんやなあ、わしは。
ま、いいか。
で、社会は」
「社会ですか。社会は53点でした」
「すげえ、こないだの25倍、いや26.5倍やなあ。
すげえ、すげえ!」
「そうですか」
「そうですかって、そうですよ、にきまっとるやないか。
だいたい、前の点数の25倍以上なんて、そう誰でも取れる点数じゃないからな。
すくなくとも前回4点以下でないと取れんのやぜ」
みんな、「すげえ、すげえ」と手を叩いて笑っている。
しかし、本人は
「そう言われればそうですね」
と笑いながらも、案外落ち着いている。
とはいえ、最後に彼はこう言ったのである。
「これ、これまでの最高得点でした」
いやいや、めでたしめでたし。
というわけで、これで、どうやら彼も席次が上がって「最末席」を続けることはできなくなったらしいが。