引退
学ぶことはわれらを変化せしめる。すべての栄養物は単にわれらを「保存」するのみでないことを、生理学者は知っているが、学ぶことの作用もこれとひとしい。
― ニーチェ 『善悪の彼岸』 (竹山道雄訳)―
この週末愛ちゃんが朝からやって来ていた。
先週で部活が終わり、彼女もいよいよ《受験生》なんだそうである。
で、平日には4時間、土日は8時間勉強せい、と学校の先生に言われたそうである。
彼女の受験には、英語も数学も古典も化学も生物もみんな必要なんだそうだから、そのくらいの勉強が必要なのかもしれない。
中には質問されても私には答えられそうもない教科もあるが、家よりもここの方が集中できるんだそうで、これから毎日学校帰りに来るそうである。
もちろん若い娘さんと関わりを持つことに対しておじさんに「いなや」のあろうはずもないこと、ドストエフスキーの「貧しき人々」の昔から決まっておる。
さて、愛ちゃんであるが、彼女、定期試験では常になかなか優秀な成績を修めてきていたのだが、どうやら、その脳ミソの構造はというと、試験が終わるとともに覚えた事柄の大半を蒸発させるようにできていたらしい。
TVの囲碁トーナメントなんぞを眺めておるテラニシ氏に、時としてあまりにも初歩的な質問をするのでおおいに呆れらたりしていたのである。
とはいえ、まじめである。
びっちり土日ともノルマの8時間を勉強して帰って行った。
エライものである。
世の中には、学んだことをただ知識としてそのままため込むだけで、それを栄養として自らが変わることをせぬ人間が多すぎるが、愛ちゃんには、これから大いに学び、そしてそれを糧に大いに変化してもらいたいものである。
ところで話は飛ぶが、その愛ちゃんが言うには、部活の終りの日、みんな、涙、涙だったのだそうだ。
たかが、部活の終りくらいでなんだよ、などと思うのはおじさんの考えであるらしく、今の女子高生はこのような時泣くらしいのである。
後輩がなにやら記念品のようなものを贈り、引退する先輩は泣き、後輩もまたつられて泣くんだそうである。
こんなことは、我々の時代にもあったことなのであろうか。
まあ、高校時代女生徒とは断然没交渉であった私が知るよしもないのであるが、そんなこと、あったのかなあ。
時代なのか、女子だからなのか、よくはわからんが、不思議なことである。
おじさんとしては「そんなものであるか!」と思うしかない。
ちなみに、私ら水泳部の場合、暑い日になれば泳ぎに行っていたのでいったいいつが引退だったのか、それすら定かではない。
そもそも、そこに所属していることに、何の思い入れもないような者ばかりが集まっていた部活だったんだろうなあ。
それはそれで、たいへん結構な部活であった、と私は思っているのだが。