する、しない
こういうことは、する、こういうことは、しない、ということがあるものだ。
しなければならぬ、してはならない、というのと違っている。そして、しないでも良いではないか、したってかまわないではないか、という反問を許さないものなのだ。
例えば、学校の教師は、こういうことをするのだ。こういうことはしないのだ。
― 福原麟太郎 「する、しない」―
ときどき、この文章のことを思い出す。
文庫本でたった2ページにも満たない短い文章だ。
たぶん、こういう言葉はあの相田みつおとかいう男の
人間だもの
などというふやけた言葉の正反対の場所に立っている男が言う言葉なのだ。
「私だって(あるいは、あなただって)人間だもの、それを、しないでもいいではないか」ではない。
それは、「する」なのだ。
「しなければならない」のではない。
「私はそれをする」、なのだ。
「人間だもの、それを、してもいいではないか」ではない。
それは、「しない」なのだ。
「してはいけない」のではない。
「私はそれはしない」、なのだ。
そう福原麟太郎は言っているのだ。
社会の仕組みが変わり社会に関係したモラルも変わるだろう。
けれども、理由なんて一々言うまでもない「する」「しない」が人にはあるものだ、と言っているのだ。
ツイッタ―で阿呆なことをつぶやいていたという復興庁の幹部職員がいたのだそうだ。
たぶん、それは、そんなバカなことをつぶやくことを「してもよい」「してはいけない」ということではないのだと思う。
それは「する」「しない」なのだ。
首相には首相の「する」「しない」がある。
都知事には都知事の「する」「しない」があり、大阪市長には大阪市長の「する」「しない」があるのだ。
先生には先生の「する」「しない」があり、大工さんには大工さんの「する」「しない」があるのだ。
母親の「する」「しない」、父親の「する」「しない」があるのだ。
私の行動の基準もまた「する」「しない」でありたいと思う。
そう思って、ときどきこの言葉を思い出すのだ。
それにはまだまだ遠いところにいるのだが・・・。