こわい伯父さん
だいたい僕は世の中で素樸(そぼく)というものが一番いいものだと思っている。こいつは一番美しくて一番立派だ。こいつは僕を感動させる。こいつさえつかまえればと、そう僕は年中考えている。
― 中野重治 「素樸ということ」 ―
ここ二三日梅雨らしい空が続く。
今朝はしとしと降る雨の音に目が覚めた。
今は止んでいるが部屋は昼も薄暗い。
イヤか、と言えばそうでもない。
むしろ、これまでどこか浮ついていた気持ちが静かに落ち着いて、とてもいい気持ちでいる。
素樸。
――昨日、畳にひっくりかえって「荘子」を読み返していたら、こんな文字に目が留まった。
注釈によれば、この【樸】という字は、「人の手をくわえないままの《あらき》」をさすのだという。
もちろん普通、「そぼく」は《素朴》と書く。
けれども、たしかどこかほかでも「そぼく」を【素樸】と表記したものを目にしたことがあると思った。
しばらく、記憶を手繰っていると、中野重治の名前が浮かんできた。
「そうだ、そうだ、たしかにそうだったはずだ」と本棚を探すと平凡社ライブラリーの「中野重治評論集」が見つかった。
白い背表紙はたばこのヤニでほとんどコーヒー色に変わっていた。
ホコリを払って目次を確かめると、たしかに「素樸ということ」という文章が載っている。
洗剤を含ませた紙で背表紙を拭き、まったくひさしぶりにこの評論を読んだ。
「ああ、中野重治だなあ!」と思った。
文体が、と言うべきなのか、論の進め方が、と言うべきなのか、つまりは、読みながら、厳しいがどこかなつかしい伯父さんにひさしぶりに会ったような感じがしたのだ。
その「伯父さん」は素樸ということをこんなふうに説明している。
僕の好きな素樸ということは結局「中身のつまっている」感じということになる。この「中身のつまっている」感じというのをもう少し説明すると、それは僕のひとり合点では、中身のつまり方じつにかつちりしていて、そのためにあえて包装を必要としないというようなのが一番いいのだ。
彼はそんな例として、ファーブルやポアンカレを挙げている。
ポアンカレのことは知らないが、ファーブルなら私だって知っている。
読んだことがある。
彼は言う。
たとえば『昆虫記』のなかで著者は綿々として話しかける。彼の中には天国ほども豊富な材料がある。天体の運行ほども正確な実験や観察の結果がある。そして彼自身には、それを語ろうとする大きな熱意だけがあって他意はない。彼は彼の話せるだけを話す。そしてそれつきりだ。彼は彼に対する愛憎を人まかせにしている。
ああ、そうなのだなあ、と思う。
中身のつまつた、というのはこういうことを言うのだなあと思う。
そして、このファーブルの中に見出される素樸とは、彼が別のところで書いている「剛毅な態度」というもののことであろうとも思う。
あまりにも「包装」にしか気を使わない言葉が世にあふれている、と言いたいのではない。
わたし自身が「中身のつまった」言葉を吐ける人間になりたいと思ったのだ。
よい文章を読み返したと思った。
こわい伯父さんには時々会ってみるべきものである。