コゼット(承前)
バルジャンは普通の人。でも正しくなろうとした。
そう、帝国劇場でバルジャンとジャベールの二役を演じているという吉原光夫という男が昨日の夕刊のインタビューに答えている。
ああ、そうなのだなあと思う。
バルジャンは普通の人なのだ。
善き者になろうとする風は誰にでも吹いているのだと思う。
そして、それを受け止める帆もみな持ってはいる。
自分の中にもそれがあることをジャン・バルジャンに気づかせてくれたのはミリエル司教だった。
彼は善き者になろうとする。
けれども、普通の人がほんとうにその風を目一杯に受け止めて進むためには、自前の帆のほかにもう一つ《純白の帆》を他から与えられなければならないのではないだろうか。
ジャン・バルジャンにとってそれはコゼットだったのではなかったろうか。
「愛」と言い、「恋」と言う。
なぜそのようなものを人が欲するのか私は知らない。
けれど、ひょっとして、それは風をはらみ自分を善き方に進ませてくれる《純白の帆》を、人が無意識のうちに求めているからではないのだろうか。
それがあるからこそ進むことができる自分なのに、そのように風を受けて進む自分にほほ笑みを返してくれる《純白の帆》。
バルジャンにとってコゼットとはそのようなものではなかったろうか。
この歌を歌った馬場あき子にとっての《純白の帆》が何なのか私は知らない。
それが恋人なのか夫なのか、それとも子なのか、私は知らない。
彼女がこの歌を歌った時、たぶんそれは純粋にイメージとしての《純白な帆》であったのだろう。
具体的形をなさぬ何ものかとしての《純白の帆》。
だからこそ、私たちもまたこの歌を読むとき、ふと自分にとってそれがなんであるかを考えるのではないだろうか。
迷わねど思いにたがう日日なれば純白の帆のほしき午後なる
今すでに善き帆を持っている者には無縁の歌ではあるが。