凱風舎
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殺人ロボット

 

小さな普通のもぐらでさえ、もう厭わしいと思う人たち、実をいえば、私もそうなのであるが、そうした人たちは、その巨大なもぐらを眼にしたとしたら、おそらく嫌悪のあまりに悶死してしまったことであろう。

 

 ― フランツ・カフカ 「村の学校教師」 (平野嘉彦 訳)―

 

 今朝新聞を読んでいてびっくりした。(毎日)
 国連が「殺人ロボット」の開発を停止するように求める報告書を出したのだという。
 つまり、そう見出しに書いてあるからには、「殺人ロボット」は現に開発されつつあるということだ。
 ええっ?

 もうずいぶん前から、中東やアフガニスタンでは、アメリカやイスラエルから遠隔操作されている無人の飛行機からのロケットや砲弾が「テロリスト」と認定された人びとを殺傷していることは知ってはいた。
 それでさえ、なんとまあヒドイものだと思っていたが、今開発されているという「殺人ロボット」とは、頭脳にあたるコンピューターや感覚器にあたる各種センサーによって、人間などの標的をロボットが選定し、それに攻撃・殺傷するものなのだという。
 人間の意思がまったく関与しない殺人兵器がやがて登場するというのだ。
 提出された報告書には

 「ロボットに生死決定の権限を与えるべきではない」

と書いてあるそうだが、そんなロボットを作って、いったいどうしようというのだ。

 記事によれば、米国、英国、イスラエルがその導入を計画しており、韓国、ロシア、中国もまたそうであるという。
 導入は5年後から20年後まで諸説あるそうだが、映画やゲームの中でのことと思っていたことが、いまや現実の話として語られる日がすぐそこまで来ているらしい。
 なんなんだろう、これは。

 さいわいにして、私はまだ人を殺したことがない。
 けれども、それがとても薄気味の悪いことだということはわかる。
 殺される者のなま温かい血や肉片、あるいはうめき声や悲鳴、そして私を見つめる目や表情は、私に、自分がとんでもないことをしてしまったことを教えるだろう。
 たとえ、それがどんなに憎い者であったとしても、私は、ずっとそのことにうなされ続けるだろう。
 たぶん、人類にとって「人を殺す」とはそういうことであったし、これからも「そうであるべき」だ。
 よくはわからないが、そう思う。
 そういうものが人間の「精神」をつくって来たのだと思うから。

 自分は安全な場所にいて、代替のロボットによって自分にとって不都合なものを「ロボットの判断によって」殺傷することは、人の罪の意識をなくしてくれるだろう。
 だが、そんなロボットを使うことは、それを使う人間を実はロボット以下の存在にしてしまうことではないのだろうか。
 そんな人が精神を持ちえない「ロボットが支配する世界」がすぐそこに来ているらしい。