凱風舎
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努力

 

 努力しているという感じは意志と逆比例します。
 ゆとりというものはつねに、意志が真に作用していることのしるしです。
 何ごとか(芸術、スポーツ、労働など)をなしうる人は、努力しているという印象をあたえません(テニス、草を刈る人など)。
 努力しているという感じは、意志がまだ作用していないことのあらわれ(苦痛、心の動揺、ぎこちなさ・・・・)なのです。
  (中略)
 意志が純粋であればあるほど、努力はすくなくなります。
 このことは私たちに、努力というものはむしろ外から働きかけられる何かであると考えさせます。
  (中略)
 自分が努力していると感じる錯覚は、神秘的な倫理や形式主義を生みだすもととなります。

 

 ― シモ―ヌ・ヴェーユ 『ヴェーユの哲学講義』 (渡辺一民/川村孝則 訳)―

 

 

 昨日、ホマン君が着ていたTシャツの背中に
  努力は嘘をつかない!
と書いてあった。
 中学生というのは、どういうわけだかこういうセリフに弱いようで、皆、誰に聞かされたのか、本気でそのように信じているらしい。
 まだ子どもなのだ。
 自分を奮い立たせる言葉として、それはそれでいい。
 けれど、それを子どもたちに言う学校の先生や部活のコーチ、監督なども、本気でこういう言説を言っているのだろうか。
 もしそうだとしたら、それは《神秘的な倫理や形式主義》の押しつけだろうと私なんかは思ってしまう。
 努力は嘘をつかない! という言説は、ある一定のレベル以上になることをみんなに強いるとても強いストレスを帯びた言葉だと私は思う。

 《努力した者が報われる社会》というのがある。
 みんな、それをたいへんいいことのように言うが、私のような怠け者は、そんな社会がほんとにあったらイヤだろうなあと思う。
 すべてが努力によって達成できるなんてことを本気で思っている集団や社会というのは息苦しいに決まっている。
 戦前の軍隊の「精神主義」とはそんなものだったにちがいない。
 何かができないと「根性」やら「気合い」やらが足りないと言われてしまうのだもの、さぞやイヤなものだったろうと思う。
 そして、「就活」とか「婚活」とかわけのわからん言葉がはやる現代の日本の社会というのもまた、人に「努力」を強いる社会なのだと思う。

 シモ―ヌ・ヴェーユは

  意志が純粋であればあるほど、努力はすくなくなります

と書いている。
 そのとおりだと思う。
 それが意志とも思わぬくらいごく自然に自ら意志して行うことは「努力」という名で呼ばれるものからは遠いものであるにちがいない。
 努力した者が報われる世界より、一人一人が自ら意志して軽々と行っていることをおたがいに尊重する社会の方がずっといいと私は思う。
 自由な社会とは「努力」を人に強いない社会のことなのだと私は思っている。