凱風舎
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傲・囋

 

問われざるに而(しか)も告ぐる、これを傲(ごう)と謂い、一を問われたるに而も二を告ぐる、これを(さん)と謂う。傲も非なり、も非なり。

( 問われぬもせぬのに告げ口をするのを傲(さわがしい)といい、問われたことよりも多くをしゃべるのを(かまびすしい)という。傲も悪ければも悪い。)

 

― 『荀子』 (金谷治 訳注)―

 

 

 荀子に「口耳(こうじ)の学」という言葉がある。
 耳から入ったことを、あだかも自分の考えたことのようにすぐに口から出してしまう小人の学問のことである。
 まあ、私が時々書いてみせたりしている「科学」の話、みたいなもんである。
 言ってしまえば、「受け売り」。
 何にも身についていない。
 だから、荀子は言う、
  口耳の間は財(わずか)に四寸、曷(な)んぞ以て七尺の躯(からだ)を美とするに足らんや
  (口と耳の間はたった四寸しかないのに、そんなもので、どうして七尺もある体全体を立派にすることができるだろうか)、と。

 もちろん荀子が言っている学問とは科学知識のことではない。
 自らを修め徳を高める学問のことである。
 だからこんなふうに言うのである。
  古えの学者は己の為にし、今の学者は人の為にす。君子の学は以てその身を美とするも、小人の学は以て禽犢(きんとく)と為すのみ。
  (昔の学ぶ者は自分自身を高めるために学び、今の学ぶ者は他人に見せて栄達を得るために学ぶ。君子の学はわが身を立派にし、小人の学はそれを人に取り入るための鳥や子牛の肉のような贈り物とするだけである。)
 いまから二千数百年も前の人が「古えの人」などと言っているのを見るとなんだか不思議な気がするが、今も昔も、まあ人というものはそんなものなのだ、ということなのかもしれない。

 

 それにしても、ひどすぎないか、と思うのである。
 そもそも学があるのかどうかもわからないが、、あまりにも程度がひどすぎる。
 かれらは、本当に自分の頭で、あるいは身体で考えるとはどういうことなのかを知らない人たちだ。
 何一つ自分の頭で考えず、理性ではなく情念をもとに思いついたことをいい気になってえらそうに口走り、あらゆることにそのように語れる「反射神経」のよさが、頭の良さや能力の高さだと思い込んでいる。
 なんともはや。
 荀子の言う、傲と囋ばかりがこの国をおおっている。
 現、および前東京都知事や、大阪の市長の言動を目にすると、選挙の時以外いるのかいないのだか一向わからぬ、かの元気モリモリの森田健作千葉県知事が、なにやら奥ゆかしい方のようにさえ思えてくる。
 

 ・・・などと、ほんとうは、全然違うことを書こうとしていたのだが、あらぬ方へ話が進んでしまった。
 今日はもっとよいことを書くはずだったのに。
 そのことは明日書きます。