千羽鶴
昔は気持の悪いものは気持ちが悪いと言えたんですよ。ところが今は『花は咲く』(NHKでやたらに流れている歌)を毛嫌いするような人物は反社会性人格障害や敵性思想傾向を疑われ、それとなく所属組織や社会から監視されてしまうようなムードがあるんじゃないの?
― 辺見庸 (’13.5.9 毎日新聞夕刊 「息苦しさの漂う社会の『空気』」)―
高校が試験週間に入ったらしく、月曜から夕方子どもたちがやって来はじめた。
今年高校に入って、山田さんや上野さんの後輩になったユウキ君も昨日から学生服姿でやって来ている。
中学校がブレザー姿だったので、なにやらいかにも高校生のお兄さんに見える。
大いに感心して
「おー、馬子にも衣装じゃのう!」
と言うと
「先生、それを言うなら《男子三日会わざれば、刮目(かつもく)すべし》でしょ」
などと言う。
彼が三国志を読んでることは知っていたが、なかなか生意気である。
いまや彼も《呉下の阿蒙》ではないらしい。
その彼に
「部活、どこ入った」ときくと
「アーチェリー」
なかなかハイカラである。
「中るか」
ときくと、まだ射させてはもらえないのだと言う。
なんでも、一分だか三分だかの一定の時間弦を引絞ったまま腕が震えなくなるまで、的に向かうことは許されないんだそうである。
なにやら、中島敦『名人伝』の世界である。
というわけで、今はひたすら筋力トレーニングらしい。
エライものだ。
そんなユウキ君が今日はカバンから妙な袋を取り出すから、「なんだ」ときくと「いろ紙」と言う。
「鶴を折らないといけないんですよ」
先輩の試合のために折るんだそうである。
そんなことを言いながら、袋から出した5センチ四方ほどの小さな紙を数え終えて、
「げっ、31枚もある」
と言って嘆いている。
「バカバカしい。そんなもの折らなきゃいいじゃないか」
と言うと
「そんなわけにいきませんよ」
と言う。
「いきませんよって、なんでじゃ」
「みんなやるから」
「くだらんなあ。
そんなもん、やりたあないと言えばいいじゃないか。
くだらん、と言えばいいじゃないか」
「言えないっすよ」
「言えよ。
だいたい、そんなもん、無理やり折ってもらって先輩らはうれしいんか」
「いやあ、わかんないですけど」
「じゃあ、おまえが2年3年になったとして、そんなもんもらってうれしいと思うんか?」
「いやあ、別にうれしくもないみたいな気がしますけど」
「じゃあ、やらなきゃあいい」
「イヤイヤ、そんなことできませんて」
「じゃあ、先輩がやめようぜって、言えばいい」
「いやあ、なんか伝統なんで、今の先輩の一存でやめるわけにはいかないんじゃないですか」
「ほんあもんかあ?
なんや、っさ。
くだらん伝統やなあ。
ほんなもん、やりたい奴だけにやらせておきゃあいいやないか」
「後輩みんなでやることに意味があるらしいんで」
「なんじゃ、それ! くだらんなあ。
わしが部活の顧問なら、ゼッタイ止めさせるけどなあ」
などと、この先生が言うもんで、ユウキ君、たいへんコマッテおったことでした。
この先生、三日、どころか十年会わなくても、
「みんな一緒に!」というのが大きらい!!
なところは全然変わらない。
こういう場合、むしろ変わらんことに刮目して(目をこすって)見るべきなんでしょうか。
それにしても、なんで、こういうものがキモチワルクないのか、私にはよくわからんのですが。
鶴を折って、なにをしようとするのか、さっぱりわからない。
連帯を、「同じことをする」で確認しようとする感覚は私には耐えがたい。
引用した新聞のインタビュー記事の中で辺見庸は、こうも言っている。
ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティーンワーク(日々の作業)の中にある。
誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きにしばりにかかるんです。
そうであるなあ、と思いながら読んだのは、私だけではないはずなのだが。