廃坑
間違い 谷川俊太郎
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
そう八木重吉は書いた(その息遣いが聞こえる)
そんなにも深く自分の間違いが
腑に落ちたことが私にあったか
草に座れないから
まわりはコンクリートしかないから
自分は自分の間違いを知ることができない
たったひとつでも間違いに気づいたら
すべてがいちどきに瓦解しかねない
椅子に座って私はぼんやりそう思う
私の間違いじゃないあなたの間違いだ
あなたの間違いじゃない彼等の間違いだ
みんなが間違っていれば誰も気づかない
草に座れぬまま私は死ぬのだ
間違ったまま私は死ぬのだ
間違いを探しあぐねて
私の部屋から100メートル程東に行ったところに、昔、大きなまあるいガスタンクが二つあった。
港から遠いこんな場所にタンクがあるのは、ずいぶん奇妙なことだと思ったが、実はそのタンクは輸入した天然ガスをためるためのものではなく、そこの地下から汲みあげていた天然ガスのためのタンクだった。
(実は東京湾岸や房総半島に天然ガスがそこここに埋まっているのは、昨日判決があったという何年か前の渋谷のスパ爆発事故のことを思い出せばわかる)
そこにタンクのあった頃は、もちろん鉄の門扉が閉じられ《立入禁止》だったのだが、ガスが枯渇したのかコスト面で採算が取れなくなったのか、いつの間にか廃井になって、7,8年ほど前タンクも撤去され、今は公園になっている。
公園と言っても、そこは遊具一つあるわけではなく、時折草刈りがされる草地が広がっているだけで、その上の丘にある古墳公園に行く人が通るだけだ。
そのうえ、広い敷地の北側半分は、どういうわけだか、簡単なロープが張られているので、そこにはめったに人は立ち入らない。
だから、そこで寝ころんでいても、誰も邪魔をしない。
草っ原に寝ころぶというのは、高校時代、学校の近くの野田山でよくやったものだが、まあどちらかと言えば、若者向きにできている行為で、こんなおっさんがやるのはどうかと思ったりするのだが、この時季は、刺す虫もいないし、あたたかいし、なかなかいい気持ちである。
ちゃんと木陰もある。
というわけで、風のないあたたかな日はついついそこでひっくりかえってしまう。
まあ、要はひまなのであるが、こんな真っ昼間、草の中で寝ころんでる人間が日本にどれくらいいるのだろうと思ったりして、なんだか申し訳ないような気になったりする。
いい気持ちである。
鳥の声と風の音、それに今日は、遠くから中学校の運動会の予行演習の声が聞こえている。
同じ草の上でも、草にすわっているのではなく寝ころんでいるからだろうか、八木重吉とちがって、私は《わたしのまちがい》に気づかない。
ただ、何も考えず寝ころんでいたそのときの私から、私の《わたし》なんて消えてしまっていたことに、あとからふと気づいたりするだけだ。