香り
さつき待つ花橘(たちばな)の香をかげばむかしの人の袖の香ぞする
よみ人しらず
(五月を待って咲きはじめた花橘の香をかぐと、
昔親しんだ人の袖の香がして、その折のことが思い出される)
― 「古今和歌集」 (奥村恆哉 校注)―
今日はあたたかく、風もない。
角の家の庭に蜜柑の花が咲いて、あたりがやわらかな甘い香りに包まれている。
ほんとうのタチバナという花がどんな香りがするものかわたしは知らないのだが、毎年、この蜜柑の花の香りがすると、古今集・夏の巻に載っている、このよみ人知らずの歌を思い出す。
ミカンだって同じ柑橘類の花だ。
同じような香りがするのだと思う。
平安時代に人々がその衣にさまざまな香(こう)の匂いをたき染めていたことは知っている。
けれども、そこにどんな種類の香りがあり、それが人々にどう識別されたのかは私にはわからない。
だから、この歌は、実際、
「昔の人」がその袖に「花橘」の匂いのする香を焚き染めていて、それを思い出す
ということなのかもしれないのだが、私にはどうもそうは思えない。
そう思えないのは、むろん、私にそのような習慣も知識もないからなのだが、この歌が「よみ人知らず」として長く人々に口づさまれてきたのは、むしろ花橘の甘やかな香りが、人々にかつての恋への記憶を思い出させるものと共感されたからではないのかと思うのだ。
思い出したのは昔の人の「袖の香」ではなく、それによって触発されて思い出された日々そのもののことではないか。
王朝の歌は、失った恋を歌う。
あるいは「忍ぶ恋」を歌う。
けれども、この歌にはそのような重苦しさがないように思うのは私だけだろうか。
同じ遠い恋を歌いながら、「さつき待つ」とさわやかに歌いだされるこの歌にはむしろ五月の空のような明るさがあるように私には思える。
ここにあるのは、恋を失った嘆きより、むしろ、ひとりでいてもいつもかたわらにそのひとの笑顔があったように思えた時代を微笑とともになつかしむような響きだ。
そう思わせるのは、もちろんそこに流れる花橘の甘い若やかな香りのせいなのだが。
たぶん、この歌を歌った男は言っているのだ。
いまでも
ひとり
この花の香がすると
ふと
君の笑顔がそこに見えるような気がする
と。