えらい人
いつだって わすれない
エジソンは えらい人
そんなの じょーしき
― 「おどるポンポコリン」―
テレビで「ちびまる子ちゃん」が始まったのは、25年以上前、上野さんたちが中学1年か2年のころだったと思う。
当時、番組が始まった頃、彼女たちは声をそろえて、
「おじせん、見て! ゼッタイ、おもしろいから!!」
と、やたらにわたしに薦めていたのだ。
というわけで、ある日中間テストの勉強か何かで、日曜に来ていた彼女たちとそれを見ることになったんだが、私はアニメの内容よりも、当時たしか西条秀樹が歌っていたその主題歌にずいぶん驚いたのだ。
そして、思ったのだ。
そうか、「エジソンはエライ人」か!
スゴイなあ!!
子どもにとって「世界」がどんなふうに見えているか、なんだかそのときはじめてわかったような気がしたのだ。
子どもというのは、なんと、簡明でわかりやすい世界に生きているんだろう!
そう思って感心したのだ。
しかし、よくよく考えてみると、大人である私たちも、実は、そんな子供たちとさほど違ったふうに世界を見ているわけではない。
むろん、私たちは、エジソンという人が、単に「えらい人」ではなく、なんだかいろんなものを発明した「発明王」だ、ということは知っている。
わたしは、と言えば、彼が作った電球のフィラメントに日本の竹が使われたということさえ、子どものころ偉人伝で読んだこともある。
では、それで私が、子どもたちよりエジソンという人について知っているかと言えば、ただ単に、それは「えらい人」が「発明王」に変わったというだけで、事の本質は何の変りもない。
要は「名前を知っている」というだけのことなのである。
むろん、大人は子供よりもたくさんの「名前」を知っている。
それは、多くの場合「知識」と呼ばれたり、あるいはそれをたくさん知っている人は「ものしり」と呼ばれたりする。
けれども、その「知識」のほとんどは「エジソン=えらい人」のレベルを超えるものではない。
その多くは、それがどんなものであるのか、あるいはその人どんな人であるのかをわかりもしないで、「名前」を知っているだけなのである。
それでも、私たちはそれを「知っている」と思って、何の不都合も感じない。
たとえば、エジソンが《発明王》であること以上のことを私が知らないのは、それ以上彼について「知りたい」という興味がわたしに湧かなかったからだし、今もないからなのだが、そのように、何の興味もない事は名前だけ知っていれば十分なのである。
それで知っている気になれる。
それで、「ものしり」と呼ばれる。
とまあ、こんなことを思い出したのは、今日エラスムスの「愚神礼讃」を読んだからだ。
エラスムスも「愚神礼讃」も、西欧のルネサンス関係か何かで高校の世界史で習って「名前を知っているだけ」だったのだが、先日、古本屋の平積みの棚に「エラスムス//トマス・モア」という本が100円で売られているのを見つけて、買ってきたのだ。
エジソンとちがって、どうやらこっちはどこかに興味を引かれるものがあったらしい。
で、読んでみたら、いやはや、おもしろかった。
こんなおもしろい本とは思わなかった。
まったく笑ってしまった。
堅い話かと思っていたら、内容は、16世紀初頭のヨーロッパもまた、そこに生きている人たちは、どいつもこいつも、みんな
パッパ、パラリラ
ピーヒャラ、ピーヒャラ
であるなあ、という話だった。
要は、人というものは、洋の東西を問わず、昔も今も、皆 踊るポンポコリンなのである。