凱風舎
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憲法記念日

 

 あらためて益(やく)なき事は、あらためぬをよしとするなり。

 

 ― 『徒然草』 (百二十七段)―

 

 

 徒然草の百二十七段は、引用の一行のほかは何も書かれていない。
 これで全文。

 要は「立ち止まれ」というのである。
 もののはずみや勢いで、人々が慣れ親しんだ物事のやり方や決まりは軽々しく変えない方がいいぞ、と言っているのである。

 むろん彼は鎌倉末・南北朝を生きた人である。
 武家の世になっても貴族の側(そば)に生きた人である。
 保守の人である。
 それは割り引いてもいい。
 けれども言うのである。
 改めても益のないことは、改めない方がよいとするのだ、と。
 理由を兼好は書かない。
 書かないが、わかるだろ、というのである。
 歴史や、経験がそう言っている、というのである。

 さて、憲法「改正」議論がかまびすしい。
 変えて、何が益があるのか、それを誰も言わない。
 《気分》を除けば何も残らぬ「改正」論。
 不思議な議論だ。

 

 国民主権・基本的人権の尊重・平和主義は日本国憲法の三大原則と言われている。
 たしかにそれらは大切なことだ。
 けれども、憲法の憲法たるゆえんは、実は憲法96条の中にこそあるのだと言っていい。
 96条は実は「手続き上の問題」ではなく、これこそが「国の最高法規」たる《憲法》のその根幹を支える思想なのだ。
 時の為政者(これは議会で過半数を持つものである)の恣意や、時として熱に浮かされる国民のさだかならぬそのときの世論によって国の根幹にかかわる事柄を軽々にかえるべきではないものなのだ、とこの条文は述べているのである。
 国民の大半にとって不都合を来たすものでなければ、世の中のおおもとは「あらためぬをよし」とせよということである。
 だからこそ、96条は両議院各々の総議員の3分の2以上の同意を以って発議され、国民投票の過半数(この規定すら実はまだ明確ではない)を以って、改めなさいと命じているのだ。
 その手続きによって、仮に上の三原則が改められたにしても、たとえそれが自らの首を絞める事態になったとしても、それはそのような重いものとして国民が意思したことなのであろう。
 それは認める。
 それが「民主主義」というものだから。

 スポーツにおいて、プレーしているものが自らの都合と恣意によってルールを変えることは競技そのものを否定することだ。
 そして、ハンドを認めるサッカーがありえないように、あらゆるスポーツは、反則をもうけることで競技として確立しているものだ。
 そして、「反則」とされるものは選手の行動の自由を規制するものとして存在しているはずだ。
 けれども行動を縛る「反則」の存在がなければそこで行われていることはその競技であることをやめてしまうだろう。
 今、安倍自民党政権が行おうとしていることは、サッカーは点が入りにくいから、選手たちがオフサイドもありにしようぜ、と言っているようなものだ。
 いくら、その方が点が入りやすいからといって、観客までがそれを支持すればサッカーという競技自体が崩壊してしまう。
 民主主義もまた制約の中で行われる。
 それを否定するものは民主主義の崩壊を招くことになることを忘れてはならない。
 
 
 
 今日憲法記念日。
 今さらあらためて言うまでもないことであろうが、私は
   憲法改悪反対
である。