八十八夜
日々の営みの努力は、ひんまがった釘を、まっすぐに撓(た)め直そうとする努力に、全く似てゐます。
― 太宰治 「八十八夜」 ―
夕刊に茶摘みの写真が載っている。
今日が八十八夜だったらしい。
写真の新茶の葉の色がまぶしい。
しかしまあ、
♫ 夏も近づく八十八夜 (トントン)
なんて唄を歌うにしては今年は寒過ぎる。
午後にはそれでも日が差したからあたたかかったが、夜になるとホットカーペットをつけ、膝掛けまでしている。
猫は今日もそこに寝そべったままだ。
まあ、そんなふうに坐りながらたばこをふかしていたら、そういえば、太宰に「八十八夜」という小説があったなあ、なんてこと、思い出した。
茶を入れるついでに、本棚にあった全集の端本を手にとって目次を見たら、たまたま載っていたので読み返してみた。
読んでみたら、読む前に思っていた小説とは全然ちがうものだった。
別にたいした小説でもない。
でも、中に、今日引用したような言葉が載っていて、なあるほどなあと思った。
もっとも、こんな言葉は今では比喩としてちっとも意味を為さない言葉になっているのかもしれない。
そもそも、釘なんて、曲がって使い物にならなくなったら新しいのを近くのホームセンターに買いに行けばよい、ということになっているんだろう。
けれども、この小説が書かれた戦前にだって、近くに荒物屋はあったろうし、新しい釘を買おうと思えば買えたのだ。
それでも、釘は曲がったら、金槌でトントン叩いて真直ぐにして使ったのだ。
もし、ダメになったら新しいものと取り換えることは、至極楽だし、便利なことだ。
けれども私たちの「日々の営み」とは、取り換えることができないものたちから出来上っているものなのだ。
たとえ、力の入れ方をまちがえて、それをひんまげてしまっても、それが取り換えのきかないものだから、私たちはそれをまた元の形に撓め直しては使うことで日々を営んでいるのだ。
家庭、仕事、近所づきあい、友人関係、みなそんなふうにできている。
曲がった釘を細かく叩いて直す、その辛気臭さを厭えば、たぶん私たちから「生活」というものは見る間に消え去っていくものなのだろうと思う。
・・・などと、ほとんど生活を持たない私が言うべきことではないのだが、まあ、太宰がそう書いていたから尻馬に乗ってしまいました。
ところで、明日は大石君がひさしぶりに飲みに来るそうです。
覚悟せねば!