凱風舎
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なるほどうまい訳だ

 

 野々宮さんはにやにや笑ひながら
「大分賑やかな様ですね。何か面白いことがありますか」
と云つて、ぐるりと後向に縁側へ腰をかけた。
「今僕が翻訳をして先生に叱られた所です」
「翻訳を? どんな翻訳ですか」
「なに詰らない――可哀想だた惚れたつて事よと云ふんです」
「へえ」と云つた野々宮君は縁側で筋違に向き直つた。
「一体それや何ですか。僕には意味が分らない」
「誰にだつて分らんさ」と今度は先生が云つた。
「いや、少し言葉をつめ過たから――当り前に延ばすと、斯うです。可哀想だとは惚れたと云う事よ」
「アハヽヽ。さうして其原文は何と云ふのです」
「Pity’s akin to love」と美禰子が繰り返した。美しい奇麗な発音であった。
野々宮さんは、椽側から立って、二、三歩庭の方へ歩き出したが、やがてまたぐるりと向き直って、部屋を正面に留まった。
「なるほどうまい訳だ」

 

 ― 夏目漱石 「三四郎」―

 

 三四郎の先生は広田先生である。
 私の高校二年の担任も広田先生であった。
 私もずいぶん広田先生に叱られたが、三四郎も三四郎の友人の与次郎も広田先生に叱られている。
 引用したのは、その与次郎が「Pity’s akin to love」(憐れみは愛に似たようなものだ)というのを
  可哀想だたほれたてことよ
と訳して
 「いかん、いかん、下劣の極だ」
と先生に叱られた場面に続くところである。
 もっとも、野々宮さんはそれを 
 「なるほどうまい訳だ」
と言っている。
 まあ、どっちかと言えば、漱石の本心はこっちの方にあるのかもしれない。
 Love は「愛」ではなく「惚れる」である。

 うそかまことか知らないが、漱石が英語の教師をしていた時
  I love you.
を生徒が
 「我君を愛す」
とかなんとか訳したところ、
 「そんなことを日本人が言うもんか、『月がきれいですね』とでも訳しておけ。それで伝わるもんだ」
と言ったという話がある。

 月がきれいですね、で I love you. はなかなか迂遠である。
 迂遠ではあるが、まあそんなものである。
 好きになれば必ずや愛を「告白」をせねばならぬ、と強迫観念のように思い込まされている今の若者たちには、これはまるでわからんことなのかもしれない。
 しかしまあ、明治の日本人はこうだったし、昭和60年代後半から70年代にかけてだって、こうであった(と思う)。
 異性と二人いて、何かが美しく見えることはすでに恋であるし、そのことを表明し相手の同意を求めるということは、まあ、I love you.ということである。
 それぐらい、お互いわかったものである。
 …なんてことはなくて、わかってもらえなくておたがいたいへん苦労したものである。
 迂遠、と言えば迂遠である。
 しかし、迂遠こそが恋であろう。
 …などと言っても通じないだろうが。

 そういえば、二葉亭四迷が「片恋」の翻訳でロシア語のI love you.(ロシア語でなんと言うのか、司氏、御教授ください)の部分を
  「死んでもいいわ」
と訳したという話もある。(私は「片恋」は読んだことがない)
 まあ、漱石にしても二葉亭にしても、日本人というのは、口が腐っても「愛してます」なんて言わないものだという認識は同じである。
 どうやら、日本語で「愛」などと言うと、自分が惚れてることが、なんだか、ウソっぽくなってしまうように思えてしまうのである。
 あるいは、そう口走る人をいかがわしく思ってしまうのである。

 などという話を思い出したのは、昨日の新聞で、安倍内閣が、郷土愛や愛国心を育て方を話し合う「ふるさとづくり有識者会議」というものを開いたという記事を読んだからである。
 なんでも、この会議は六月中に《ふるさとを愛する気持ちをはぐくみ、誇りあるふるさとをつくるための中間報告》をまとめるのだそうだ。

 はてさて、愛である。
 郷土「愛」であり、「愛」国心である。
 どうやら、安倍氏にとって、それはひとの心に自然に湧きおこるものではなく、無理にでも教育すべきものであるらしい。
 しかし、そのように植えつけられる愛国心とは、あの半島の北の国の愛国心と本質的に同じものではあるまいか。
 あれは教育と強制によって大合唱されている「愛国心」だろう。
 そして、同じく、中国の「愛国教育」が何をもたらしてきたのかをも、去年私たちは見たのではなかったか。
 日本人の若者にも同じようになってもらいたいと思っているいるのであろうか。

 「愛国心」。
 なんだか、いかがわしいなあ。