廃棄
書(ふみ)よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭(ぜに)を呉れたまひけり
戦場の兄よりとどきし銭もちて泣き居たりけり涙おちつつ
― 「日本詩人全集・10 斉藤茂吉」 (新潮社)―
今日は昼過ぎから風と雨が凄いというので、朝、散歩にでかけた。
すこし疲れたので、ちょいと椅子にでも腰を下ろそうかと、9時過ぎ、ちょうど開いたばかりの新習志野の図書館に入ったら、入口になにやら人だかりがしている。
入るに入れない。
何事ならん、と見れば、図書館の入口のところにテーブルが置かれ、その上の段ボールの中にたくさんの本があるのを、皆が手にとっているのである。
上に貼り紙があって、
リサイクル図書。
御自由にお持ち帰りください。
となにやら「注文の多い料理店」みたいなことが書いてある。
どうやら、もはや借りられなくなった場所ふたぎのベストセラー本の類を処分しているらしい。
だからと言うて、この人混みはなんじゃろか、と人の間をすり抜けて、中に入ろうと体を斜めにしたら、とんでもないものが目に飛び込んできた。
あなた、こんなもんまで処分しますか!
いくら借りる人がいないからって、このようなものを処分しては「図書館」の名に値しないではありませんか!
同じ《世界》と名付けられてても、これは「世界の中心で愛を叫ぶ」とは違うでしょ。
いやはや。
「汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)」という言葉がありますな。
それを運ぼうとすれば、荷車を引く牛馬は汗をしたたらせ、積み上げれば家の棟木に届くほどに蔵書が多いことを言う。
現代の出版事情では非才浅学、安アパート住まいの私ですら、油断をしているとそうなりかねない。
まして、「利用者の要望」に応えるべく義務付けられているらしい公共図書館では、見る見る不要の本が天井に届くほどに溜まり、汗牛充棟ただならざること、容易に想像がつく。
けれども、である。
図書館には、備うるべき《基本図書》というものがあるのではあるまいか。
世界や日本の古典と呼ばれるもの、あるいは文学全集、哲学全集、あるいは図鑑類、美術全集。
そしてまたこの「世界の歴史」もまた、最低限備え置くべきもの、の一つなのではないのだろうか。
まして、文庫本である。
場所だってそんなに取らない。
たとい、繙(ひもと)く者が年に一人しかいなくても、それはそこになければならないものではないか。
たぶん、この新習志野の図書館も、かつてそう考えたがゆえにこの叢書を購入したにちがいないのである。
それらは利用者の多さを予想してではなく「古びないもの」として購われたはずである。
しかるに、今それを処分しようというのは、図書館の在り方についての考え方の基準がずれてしまったのであろう。
いやはや。
私、思わず、中の一巻を手にしてしまった。
美しいものです。
たしかにあまり読まれてはいない。
しかし、だからといって、これは図書館の一隅にちゃんとあるべき本ではないのだろうか。
私、家にある数巻を除いた十余巻を頂いて帰ることにした。
そうしながら、なんだか、かなしかった。
家に帰って見ると、それらの本の天の部分には
廃棄
というハンコが捺されていた。
けれども、むしろ、この図書館こそが図書館であることを自ら「廃棄」処分してしまっているのではないかと思った。