木瓜
世間には拙を守ると云ふ人がある。
此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。
余も木瓜になりたい。
― 夏目漱石 「草枕」 -
道が線路にぶつかったのでそれに沿って歩いていたら子どもの声がする。
なんだろうと思ったら、駅に近い、ビルとビルのあわいにある線路沿いの公園に子ども連れの母親たちがいっぱいいるのだ。
どうやらお花見がてら集まっているらしい。
たしかに桜の木が三本ほどあって、それらは満開ではある。
そして広さもそれなりにある。
とはいえ、そこに芝が生えているわけでもなく、子どもの遊具と砂地が広がっているだけの公園である。
かたわらは駅前の道である。
車はひっきりなしに通っている。
何もこんなところで花見などしなくてもいいのに、と思うが、そうは思わないらしい。
子どもたちを遊ばせるスペースがあればそれでいいらしい。
花の下で弁当を広げている一団がいくつもある。
それにしても、子どもたちはにぎやかなことだ。
見ていると、子どもというものはともかく走るものなのだなあ!
意味もなく、誰かが走り出すとそれにつられてみんなが走り出す。
よくわからんが、ともかく走るのである。
みんな走るのである。
エネルギーが余ってるんだろうなあ。
体を動かすのが楽しくてしようがないらしい。
見ていて、まったく笑ってしまうくらいに走るのである。
そんな公園をなんとなくニコニコしながら通り抜けて、ふたたび知らない細い小路を歩いていたら、庭先に木瓜(ぼけ)の花を咲かせた家がある。
桜におとらずこちらも満開であるが、誰も見ていない。
なかなかのんきなものである。
そういえば漱石に、木瓜の花になりたいというのがあったなあ、と家に帰って本を開く。
「草枕」の終りの方である。
曰く
木瓜は面白い花である。
枝は頑固で、かつて曲つたことがない。
そんなら真直かと云ふと、決して真直でもない。
只真直な短い枝に、真直な短い枝が、ある角度で衝突して、斜に構へつゝ全体が出来上つて居る。
そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。
柔かい葉さへちらちら着ける。
評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟つたものであらう。
とあって、今日冒頭に引用した文章が続く。
世間には拙を守ると云ふ人がある。
此人が来世に生れ変ると屹度木瓜になる。
余も木瓜になりたい。
はたして、木瓜というのが漱石の言うような花かどうかは知らない。
だが、木瓜は梅のように他にさきがけて咲くわけでもない。
はたまた桜のように人を酔わせみんなから讃嘆されるような花でもない。
木瓜は、ほかの花たちも咲くころ同じように咲いて、自分の庭で誰に見られるでもなく自分を咲かせて自得している花である。
木瓜はそういう花である。