動画と写真
スチルはどこかドラマチックだが、ビデオでは日常と同じ時間が流れる。
― 谷川俊太郎 「写真」 ―
日曜日の毎日新聞の書評欄にこんな言葉が引用されていた。
なるほど、そうなのかもしれないと思った。
一瞬の静止画像(スチル)は、その前後を持たぬがゆえにかえってビデオより劇的なのかもしれない。
私たちは自分たちの生を本来連続している時間の中にあるものと思っている。
だが、写真を撮られるとはその生の一瞬を前後の時間から切り離して見せることだ。
一連の流れの中で或る意味を持っていた表情や動作はその前後から切り離されることによって、まったく違ったものにさえなり得る。
何ほどか劇的であるとはそういうことであり、だからこそ、写真を撮られることは人に緊張を強いるのだ。
スピード写真で撮られた証明写真ですら何ごとかを語りはじめる。
カメラを向けられた時、子どもたちが、かならずピースをしてしまうのは、一瞬を切り取られるその緊張に堪えられないからだ。
日常のふりをしたいからだ。
運動会や結婚式でビデオに撮られた画像はたぶんは一度、よくて二度ほど再生されれば、あとはほとんどかえりみられることはないものだろうと思う。
それは写真を見るより手間や時間がかかる、ということだけがその理由ではないような気がする。
谷川俊太郎が言うように、それはビデオには、それがいかに特別な日のものであれ、日常と同じ時間が流れているからなのだ。
だから、ビデオの画像というものが本当に意味を持つのは、たぶん、そこに映された人が亡くなった後なのだ。
そのとき、ビデオの画像は、まちがいなく、写真よりも深くその人がこの世にもはや生きていないことを見る者に告げるだろう。
それは私たちに自分たちが失った日常がどんなものであるかを、端的に告げるものになるだろう。
もっとも、私は亡くなった親しい者の動画を目にしたことはないのだが。