かなしみ
青空へひとすぢ奔り去る水のそのかなしみを歌といふべし
塘 健
― 「現代の短歌」 (高野公彦 選)【講談社学術文庫】―
昨日 炊飯器が壊れてしまった。
思えば30年も使っていたのだ。
経年劣化、など言うもおこがましい。
毎日の湯気で上蓋は変色しひびが入っていたのを、それでも使っていたのだ。
そんなものをいつまでも使い続ける主人に炊飯器自らが「御役御免」を申し出た、と言ったところだ。
飯は炊かないわけにはいかない。
鍋で炊いてもいいが、この無精者が、そんなこと続けられるわけがない。
ヤカンの空焚きでさえ数知れないのに、まいにち焦げたご飯を食べることになる。
というわけで、今日、新しいのを買いに街に出た。
風はなかったが、晴れあがった空高くを白い細引きの雲が北へと流れていた。
まだまだ寒いがそれでもたしかに春が来ていることがわかる日差しだ。
昨日
磐余の池の塘(つつみ)にして涕(なみだ)を流して
という万葉集の詞書を写しながら、同じ「塘」という漢字を姓に持つ歌人の歌を思い出していた。
その人の歌で覚えているのは、今日引用の歌一つだけなのだが。
好きな歌のなのだ。
その歌を今日の空を見上げながら、また思い出していた。
もっとも「青空へひとすぢ奔(はし)」っていたのは、水ではなく雲なのだが。
けれども、本当を言えば昔から私は
青空へひとすぢ奔り 去る水の
と口では言いながら、そのイメージするところは水ではなくいつでも白い雲だったのだ。
これは、たぶんとんでもなく正しくない鑑賞の仕方なのだろう。
けれども、青の中にひとすぢ奔り、やがて青の中に消え去っていく白い雲の「そのかなしみを歌といふべし」という断言として私はこの歌を好んできたのだった。
「悲しみ」のみならず「喜び」も「美しさ」も「悔しさ」も人の持つ思ひはすべてはかなく消えていく。
それら消えゆくものが持つ「かなしみ」を人は歌にし、歌にすることによってその消えゆくものたちを、人は当初の切実さをもっていつまでも保持していこうとしてきたのだ。
それは何も「歌」に限ったことではなく、あらゆる芸術とは、はかなく消えゆくものの「かなしみ」に形を与えようとする人間というものの営為のことを指すのだろうと思う。
ところで、新しい炊飯器で炊いた飯はたいへんおいしうございました。