姉の力
わが背子を大和へ遣(や)ると さ夜深(ふ)けて暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
大伯皇女(おおくのひめみこ)
― 「万葉集」 (中西進 全訳注) ―
昨日の合格発表の日、ユウキ君はそんなみっとむないことはやめてくれよと言ったらしいが、彼の姉と母親は一緒に、彼とは別に発表を見に行ったそうである。
そして、姉は弟の受験番号を見つけて、なんと、泣いたのだそうである。
自分の時は泣かなかったのに!
「わけわかんないから!!」
とは、ユウキ君のセリフであるが、そして、まことに姉とは「わけのわからない」ものではあるが、いやいや、よい姉さんである。
言っておく、持つべきものは姉である。
姉というものは、特に弟に対してはほとんど保護者を任じていて、弟にとってはやけに口うるさいものではあるが、その本質は「ちいさなおかあさん」である。
弟としてはうるさいほどの愛情にあふれているものである。
(たぶんこれは弟に対してだけで妹に対するのとはちがうのだ…と思う)
今日はそんなお姉さんの歌。
引用した歌は、万葉集に
大津皇子、竊(ひそか)に伊勢の神宮に下りて上りましし時、大伯皇女の作りませる御歌二首
と詞書きのつけられた有名な歌のうちの一首である。
この大伯皇女は大津皇子(おおつのみこ)と母を同じくするお姉さんである。
彼らの母親は若くに亡くなってしまっている。
父親は天武天皇。
686年九月九日にその天武が崩御すると、一月もたたぬ十月二日、謀反が発覚したとして皇子は捕らえられ、わずか一日後の三日に彼は処刑されている。
時に皇子二十四歳。
万葉集はこの歌を天武崩御のあと処刑されるまでのわずかな期間に、大津皇子が伊勢神宮に斎宮として仕えていた姉の大伯皇女のもとを訪ねたときの歌だとしている。
大津皇子の謀反とは、わが子である草壁皇子になんとしても皇位を継がせたい天武の妃、持統(彼女は大伯皇女、大津皇子たちの叔母に当たる)がでっち上げた謀略だとされている。
皇位継承にかかわるその不穏な雰囲気はこの時点で弟にも姉にも十分にわかっていたであろう。
だからこそ弟は唯一の肉親である姉に会うために、大和から伊勢へと、万葉の時代けっして簡単な往来ではなかったろう道をたどりやって来たのだろう。
そして今また弟は謀略渦巻く大和へ帰ろうとしている。
不安はふりはらいながらも、これが最後の別れかもしれないとは、どちらも心のどこかで思っていたはずだ。
皇女は詠う。
( 私の大切な弟は大和に帰るという。
それを送る私は夜更けて朝になるまで一人「あかときつゆ」に濡れるまで立ちつくしていた・・・)
「暁」とは夜が明けようとする暗いうちのことである。
〈夜が白んでくれば「あけぼの」になる)
昼間の別れではない。
暗い夜の別れである。
その夜更けから暁までを闇の中に姉は立ちつくしている。
彼女の裳裾を秋の「あかときつゆ」が濡らしている。
かなしい歌だ。
次に続く皇女の歌は
二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君が独り越ゆらむ (106)
〈二人で行ってさえ、越えがたい秋の山を、弟は独りでどのように越えていることだろう)
これらの歌からしばらく隔てて同じ巻第二に大津皇子が亡くなったあとに、都のある大和に上って来た姉の歌が四首載っている。
神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに (163)
(神風が吹く伊勢の国にいればよかったものをいったい何をするために私は都に戻って来てしまったのだろう、あなたもいないことなのに)
見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに (164)
〈会いたいと私が思っているあなたもいないのに、なにしに戻ってきたのだろう、ただ馬が疲れるだけなのに)
うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)とわが見む (165)
〈生きている私は明日からは弟を葬った二上山を弟と思って見ていこう)
磯の上に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言わなくに (166)
〈岸のほとりに咲くこの馬酔木を目にすると、思わず手折ってこの花を見せたい思ってしまう、けれどそれを見せたいと思うあなたはもういるとは言えないことなのに)
父である天武が亡くなって、伊勢神宮の斎宮としての役目を終えて都に帰った皇女の歌である。
二首続けて「なにしか来けむ」と言いつのる姉の思いは痛切である。
慰めあるいは励ます弟はもういないのだ。
きれいに咲いた花を見せたいと思う弟はもういないのだ。
これら六首の歌はどれもぴんと張りつめた思いがそのまま言葉になって歌われている。
はてさて、姉とは何か。
弟からはよくはわからない。
けれど、姉というのものは、いつまでも弟のことを「ちいさな母親」みたいにずっと見ているらしい。
それは、じつにありがたいことであるのだよ、ユウキ君。