せかるる
春と聞かねば 知らでありしを
聞けばせかるる 胸の思ひを
いかにせよとの このごろか
いかにせよとの このごろか
― 吉丸一昌 「早春賦」 ―
昨日はほんとうに寒くて、まさに
春は名のみの 風の寒さや
でした。
あるいは
今は時ぞと 思ふあやにく
今日も昨日も 雪の空
で、道を歩きながら思わずこの歌「早春賦」を口ずさんでいたのですが、さて、一人その三番までの歌詞を歌い終わったとき、不意に
わしはまちがっておったのかもしれないぞ!
と思ってしまったのでした。
別に歌詞そのものをまちがっていた、というのではありません。
その三番の歌詞の中にある「せかるる」という言葉の意味のことなのです。
私はずっとこれを
急かるる
だと思って歌っていたのですが、ひょっとしてこれは
堰かるる
ではあるまいか、と思ったのでした。
というわけで、部屋にあるはずの「日本の唱歌」という本を探したのですが、例によって行方不明。
けれど、たぶん、私がずっとそう思っていたというのは、その本ではたぶん「せかるる」とひらがなで歌詞は書いてあったのではないかと思います。
ところが、今、Wikipediaで見てみると
急かるる
と漢字で記してありました。
これは私がずっと思っていた解釈と同じです。
やっぱりそうなのかなあ。
そうなのかもしれないのですが、でもちょっと考えたことを書いてみます。
「せかるる」が「急かるる」なら、歌は
春と聞かなかったら、知らないままでいられたのに
春と聞いたら、早く春がやって来ないかと心が自然と急がれる胸の思いを
いったいどうすればいいのでしょうか と思われるこのごろです
というような意味になるんでしょうが、そして、それでも意味は十分結構なのですが、ほんとうにそうなんでしょうか。
考えてみればわかることですが、私たちは春に向かって自分から会いに行くことはできないのです。
それなのにどうして自分の心が「せかるる」のでしょう。
それは「急く」ではなく「堰く」なのではないのでしょうか。
たとえば、こんなことを想像してみます。
とても好きなのだけれど、自分からは会うことのできない人がいる。
その人は今、近くにまで来ているという噂がある。
会いたい、でも、会えない、会いに行けない・・・。
そのとき、胸の思いは「急く」のでなく「堰かれて」いるのではないでしょうか。
恋、というものがなべてそうであるように、ここでの「せかるる」は《会いたい思いが堰きとめられてかえってあふれる》ということではないのでしょうか。
ですから、この「早春賦」の三番の歌詞は
春と聞かなかったら、知らないままでいられたのに
あなたの名前を聞いたら、
あなたに早く会いたいという胸の思いが堰きとめられたように溢れてしまいます
この思いをいったいどうすればいいのでしょう
私からはなにもできないのに・・・
というような意味の歌詞なのではなかったのか、と思ったのでした。
「せかるる」と聞けば百人一首、崇徳院の
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ
という歌なんかも思い出されます。
滝川の瀬の流れははやいので、岩に当たって二筋に分けられてしまいます
けれど、その流れもその先ではふたたび一つになります
そのように、私とあなたの間もたとえいったんは別れることになったとしても
かならず、かならずまた一緒になりましょう きっと
なんて意味なんでしょうが、このように何ものかによって「堰かるる」ことによって、かえってそのあと、その流れや思いが「急に」なるものだとすれば、「堰く」も「急く」もその語源は「狭(せ)く」からきているもので、ただその現れようの違いを表しているだけなのかもしれません。
せばめられて溢れ、せばめられて速くなる・・・。
ちなみに「関」は人の流れをとどめ「咳」は息をいったんとどめるがゆえにそう名付けられたのかもしれませんな。