泣く・泣かない
貧困とは剥奪以上のものである。すなわち、それは絶えざる欠乏の状態であり、痛ましくも悲惨な状態であって、それが恥ずべきなのは、人間を非人間化してしまう力を持っているからである。
― ハンナ・アレント 「革命について」 (志水速雄 訳) ―
「いやあ、男泣きでしたよ」
大学生の細川君は言うのである。
《男泣き》というのが、どのような状態を指すのかは必ずしも明確ではないが、泣いたことだけは確からしい。
たまたま道で出会って、二人で行くことになった映画を観終わった直後のことである。
『レ・ミゼラブル』。
私も泣いた。
「なんで泣いたんだと思う」
帰り路を歩きながら私がそう尋ねると、細川君は「うーん」とうなった。
うまく言葉にはできないらしい。
で、しばらく黙って歩いた後
「ヨーロッパの人って、優しいですよね」
と言う。
「日本人だって優しいだろう」
「それはそうなんですけど・・・。でも優しい」
別に映画に「優しい」人間ばかりが出てくるわけではない。
そもそもが、題名の通り、「ミゼラブルな人たち」がたくさん出てくる映画だ。
主人公を執拗に追い詰めるジャベール警部もいれば、欲得づくだけで生きているような宿屋の主人テナルディエみたいな奴もいる。
にもかかわらず、細川君が「ヨーロッパの人って優しい」という言葉をもらしたのは、自分を感動させたものの正体を考えてみたとき、それが登場人物たちの「優しさ」であったと彼が思ったからだろう。
大学生になってもかならずしも豊富にはなってはいないらしい語彙の中から、それでも「優しさ」という言葉で彼が語ろうとしたことは、たぶんこの映画の本質を射ぬいているのだと思う。
そして、彼がこの映画の中で見つけたその「優しさ」とは、明らかに日本人の持つ「優しさ」とは異質の、あるいは日本人が絶えて持たずに来た「優しさ」なのだ。
それが、彼の
「ヨーロッパの人って、優しいですね」
という言葉の意味であり、彼の心を揺すぶったものの正体なのだと思う。
ちょっと疲れているので、今それを吟味し述べる気力はないのだが(なにしろ今日は映画館まで往復8キロくらい歩いてしまった!)、後日、それについて述べる機会があろう。
ただ、今日結論めいたことを書けば、引用したハンナ・アレントが言うように、本来貧困というものが、人間を「非人間的」にしてしまうものであるにもかかわらず、その中でも「人間的」であろうとした人々をこの映画が描いていたことに深く彼は感動したのだ、ということだろうと思う。
もっとも、細川君は私と別れるとき
「オレ、これから干潟を一周して考えてみる」
と言っていたから、もっと深くあの映画が自分を感動させた理由をさぐりあてているかもしれない。
ところで、先週の新聞のコラムにこんなことが書かれていた。
映画は安倍の息抜きだ。(中略)
最近は「レ・ミゼラブル」を見た。「泣きました?」と聞くと、首相はこう答えた。
「年とって涙もろくはなったんだけど、あれでは泣かなかったなあ。」
― 山田孝男 『風知草』 (「首相インタビュー余話」13年1月28日毎日新聞)―
うーん、そうなのだなあ。
彼は、けっしてこのような映画では「泣かない」人なのだ。
ある映画を観て泣く・泣かないがその人の評価の基準になるなどという暴論を言おうとは思わないが(それじゃあ、誰かの葬儀で泣く泣かないで人を評価するどこかの国みたいだものな)、映画を観終わったとき
「これはあの人や麻生が泣く映画じゃあないことだけはまちがいないな」
と私は思ったことだった。
たぶん、彼らには大切な「何か」が欠けているのだ。
人を「非人間的」にしてしまうのは何も貧困だけとは限らない。
マリー・アントワネットは、フランス革命の際
「パンがなければ、お菓子を食べればいいのに」
とか言ったそうだが。
別に政治家に感傷的であることを求めたりしているわけではない。
そうではない「何か」が彼らには決定的に欠けているのだと思うのだ。
ところで、今朝の新聞によれば、安倍内閣の支持率は上昇しているらしい。
うーん。