凱風舎
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野仏

 

 

 昔は子を持たぬ人たちが、死んだ場合は、その人の死んだのち霊をとむらう者がいないので成仏ができないと信じ、できるだけ多くの人の供養をうけなければならないと考えていました。そこで小さい子どもたちが死んだとき、その墓を道ばたにたててとおりがかりの人に拝んでもらうようにしました。
 ただ拝んでもらうだけではいけないというので、それを道しるべにして、右何々、左何々などと方向をしめし、辻にたてたものも少なくありません。(中略)子を思う親の心がしのばれて、あわれをもよおします。とおりがかりの人たちは、鈴をふり、花をささげて、いっぺんの念仏をとなえていったにちがいありません。しかし、若くして逝った子も、子のためになげいた親も、みな死んでしまって、いつかはその墓をふりかえる者さえなくなってきました。そして、それを土のなかにうずめてしまったものも、少なくないのです。(中略)
 昔はまた、道ばたでゆきだおれて死んだ人も多かったのです。村の人たちは、そのたましいが成仏するように、無縁塔や地蔵様を立てました。無縁塔も多くの人々に拝んでもらったのです。

 

                   - 宮本常一 「日本の村」 -

 

 

 私の住んでいるアパートのある小路から国道14号線に出た角のところに高さ30センチほどの野仏が立っている。 
 国道の脇に建つものを、はたして「野仏」と呼ぶべきかわからないが、材質はやわらかな凝灰岩で、表に刻まれた仏の姿はすでに摩耗している。
 かつては村であったこの町に暮らしていた人々が、海岸線が埋め立てられ、そこに国道が通ってさえ、この野仏をこの場所に置いておこうとしたのにはそれなりの理由があったのだろうと思うが、背にも脇にも何も書かれてはいないので、これが建てられた年代もその由来も私には何もわからない。
 ただ、宮本常一の文章を読むと、今はほとんど小さな石くれにしか見えないこの仏にも、かなしい、けれど、どこかやさしい物語がかつてあったのだろうと思うばかりだ。
 
 

 

                     冬すでに路標にまがふ墓一基

                                  中村草田男