凱風舎
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マルセリーノの歌

 

  そしてわたしには思えた、アガーテが針仕事をしながら庭のベンチに座っていると、まだ生れ出ぬ子がいまからもう木々のさやぎや風の音をきいているかもしれぬと。またわたしには思えた、その子が一生のあいだこのような生まれ出る前の傾聴を、思い出のない永遠の郷愁として抱いて歩むのではなかろうかと。

 

  ― ブロッホ 『誘惑者』 (古井由吉 訳)―

 

 

 

 まだテレビ放送が白黒であった頃、NHKの放送は、昼間の多くは「テストパターン」という静止画像が続くのだが、土曜日だけは時折映画をやっていた。
 「道」や「自転車泥棒」といったイタリア映画の名作も、「荒野の決闘」「幌馬車」といった西部劇も、あるいは「ローマの休日」や「或る夜の出来事」といったラブロマンスも、はたまた美女に恋した大猿「キングコング」や「無法松」の哀しみも、みんな私は小学生のころ、そうやって友だちの家のテレビで見たのだった。
 これらの映画は一年ほど経つとまた放送されたので、子供の私は同じ映画を何度も見たのだった。
 今週大石君が観に行ったという「汚れなき悪戯」もまたそうやって観た中の一つだった。

 読み終えて、なんだか懐かしくなって、思わず、中で歌われる
  なんちゃらかんちゃら、マルセーリーノ
という歌の「マルセーリーノ」というところ以外はハナ歌でごまかして歌いながら、
  そうか、You Tubeとうものがあるじゃないか!
と「マルセリーノの歌」と打ってみたら、可愛い映像もついていて、2分余りの映像だったけれど、見ていて泣きそうになった。
 子供のマルセリーノはもちろんかわいい。
 けれど、それを見守る修道僧たちもみんなかわいいのだ。

 なつかしさ、といっても、二種類あるような気がする。
 一つは具体的な事象に対するなつかしさで、たとえば、この間ひさしぶりに私の部屋にやって来たトミーたちが何も変わらぬ部屋の様子に思わず
 「なつかしいなあ!」
と言ってしまう、そんななつかしさだ。
 もう一つのなつかしさとは、具体的な記憶は欠いているのに、たしかにそんなことが自分にもあったかのように思ってしまう、いわば人というものが持つ「先天的記憶」とでも言いたいような何かが刺激されるそんななつかしさ、とでも言おうか
 うまくは言えないが、たしかにそんなものが人にはあって、たぶんそれを人は《ノスタルジー》と名付けているのではあるまいか。
 大石君の文を読んで、私が抱いた「なつかしさ」は前者であり、映像を見て泣きそうになった「なつかしさ」はたぶん後者なのだと思う。
 後者の「なつかしさ」とは、つまり「あの映画がなつかしい」のではなく、あの映画そのものが持っていた「なつかしさ」にこちらが感応するといった種類の「なつかしさ」なのだ。
 と、どうも文章がこんがらかっているが、言うてしまえば、あの映画はいい映画である、ということなのだが、うーん、やっぱりうまく言えないなあ。
 ごめんなさい。
 わからないところは、今日引用したブロッホの文で何となくわかったつもりになって下さい。