凱風舎
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誕生日

 

 何ごとも二度とは起こらず繰り返さない
 それゆえにわれらはあどけなく生まれ世慣れぬまま死んでゆく

 

 ― ヴィスワヴァ・シンボルスカ 「何ごとも二度とは」 (工藤幸雄 訳)―

 

 

 今日は、司氏の60歳の誕生日である。
 めでたい。
 今日ぐらいは、邑井氏は囲碁で司氏に花を持たせてあげたであろうか?
 まあ、邑井氏がそんなことをするわけもないが・・・。

 それにしても、六十年である。
 日数で言えば、司氏は今日で
  365日x60+(60÷4)-1= 21,915日生きてきたことになる。 
 (マイナス1は2000年にうるう年がなかった分)
 いやはや、スゴイものだ! 

 私だって、同じくらい生きてきた。
 もちろん、その間、どんな一日も、二度とは来なかった。
 一日たりとも、同じ日はなかった。
 にもかかわらず、特別な日を除き、そのほとんどを、私は「昨日と同じ日」として迎え、そして過ごしてきたのだった。
 それは司氏も同じであり、私たちのほとんどはそうやって年を重ねてきているのだ。

 ポーランドの詩人シンボルスカは 
   何ごとも二度とは起こらず繰り返さない
から、私たちは
   あどけなく生まれ世慣れぬまま死んでゆく
のだ、と言っている。
 けれども、「あどけなく生まれ」てくる方はともかく、「世慣れぬままに死んでゆく」方は、実は、私たちがいつまでたっても、「明日もまた今日と同じだ」と思い込んでいるからそうなるのではあるまいか。
 同じことの繰り返しこそが人生だと安心しているからではあるまいか。 

 20、000日も生きれば、人生のたいがいなことはわかったつもりになる。
 けれども、そうでなくても、私たちは「世慣れた者」として、そのほとんどの日を生きてきたのではなかったか。
 2,000日しか生きていない小学生すら、上級生が下級生に、学校の仕組み、しきたりを教えるではないか。
 それは、私たちの形づくる社会が「同じことを繰り返す」ことを前提にできあがっているからだ。
 昨日が今日に続き、今日は明日につながる、と思えばこそ、私たちは安心して日を送ることができる。

 けれども、本当はそうではないのだ、ということは、だれだって20,000日も生きてくればわかる。
 すべては変わる。
 人生では、あらゆる物事が「変わってゆくこと」こそが、ただ一つの「変わらないこと」であることに思い至る。
 「無常」ということ、とは、そういうことだとわかる。
 にもかかわらず、私たちは、老いを嘆き、病気を嘆き、ちかしい者の死を嘆かずにはいられない。
 しかし、そうやって、そのようなことに「世慣れぬままに」生きてきたのだとしたら、たぶん、私たちは幸せだったのだ。 

 前の休日と同じように、今日も司氏は邑井氏と碁盤に向き合ったであろう。
 (そして、たぶんは結果も・・・。)
 今日は、勝田氏も加わって焼肉を食うそうな。
 うらやましい。

 昨日と変わらぬ今日、けれど、すこし特別な今日。
 そんな日が持てることは、やっぱり幸せなことなのだ。

 司氏、還暦おめでとう!
 いよいよ、私も、もうすぐだ。

 いやはや。