本当の願いごと
「ね、マルテ、わたしたちはみんなうかうか暮らしているのね。世間の人々は何やかに気をちらし、ただ仕事だけに忙しそうで、ふだんの生活などにはちっとも気を配っていないのです。だから、まるで流星か何かが飛んだほどにも、気をかけぬのに違いないわ。誰一人見ようともせぬのだわ。このごろは、誰も心に願いを持つなんてことはなくなってしまいました。けれども、マルテ、おまえは心に願いを持つことを忘れてはいけませんよ。願いごとは、ぜひ持たねばなりません。それは、願いのかなうことはないかもわからないわ。けれども、本当の願いごとは、いつまでも、一生涯、持っていなければならぬものよ。かなえられるかどうかなぞ、忘れてしまうくらい、長く長く持っていなければいなければならぬものですよ」
― リルケ 『マルテの手記』 (大山定一 訳) ―
今夜地球はその軌道上の小さな塵の群れの中に入っているはずなのだが、今地面に降り注いでいるのは流星雨ではなく本物の雨だ。
もっともそれほどのニュースにもならなかったところを見れば、今年のしし座流星群は大したことはないらしい。
とはいえ、今日の引用は、そんな今年は見えない流星にちなんで、リルケの『マルテの手記』から、流れ星、が出て来るところを載せてみる。
引用は、彼の若いママンが、亡くなる少し前に幼いマルテに向かって言ったという言葉だ。
若い頃この小説を読んだ私は、「これは正しい言葉だ!」と思ったのだろう、この文章をノートに書き写した。
そして、そのせいで今でも時折この言葉を思い出し、やはり「これは正しい言葉なのだ」と思うのだけれど、いまだに私は、なぜこれが「正しい言葉」であるのかをうまく言うことができない。
だが、それは息子に向かってこの言葉を語ったという母親自身もまた、きっとそうだったのだ。
正しいことは知っているが、なぜそれが正しいのか言えない。
だからこそ、こんな言い方しかできないのだ。
それが正しいことはわかっているが、なぜそれが正しいのか言えない、ということはたくさんある。
それは、科学や論証では語ることができない「真実」だ。
だから、それはまるでおとぎ話のように子どもに向かって語られるしかない。
たとえばタルコフスキーの映画『サクリファイス』の始まりで、自分の誕生日に息子と二人地面に枯れ木を生け花のように立てた後、主人公アレキサンドルが息子に語るこんな話もそうだ。
昔、年老いた修行僧が弟子に言う。
「山の上に枯れてかかった木がある。おまえはそれに毎日一回水をやれ」
弟子は毎朝水を汲んで山に登り、木に水をやって夕暮れになって帰って来る。
そうして三年たったとき、その木に命が甦った。
これは「正しい言葉で語られた話」なのだ。
だから、この話は「正しい言葉」として息子に伝わるし、見ている私たちにもわかる。
けれども、それがなぜ正しいのか、人は言えない。
なぜなら、それは現実にはほとんどあり得ない話だからだ。
けれども、これが「真実の話」であることを私たちはわかるのだ。
マルテの母親は息子に
おまえは心に願いを持つことを忘れてはいけませんよ。願いごとは、ぜひ持たねばなりません。それは、願いのかなうことはないかもわからないわ。けれども、本当の願いごとは、いつまでも、一生涯、持っていなければならぬものよ。かなえられるかどうかなぞ、忘れてしまうくらい、長く長く持っていなければいなければならぬものですよ。
と言う。
彼女は何が「本当の願いごと」なのかは言わない。
けれども、それは「一生涯、持っていなければならぬものよ」とだけ定義する。
そしてそのとき、私たちはそれを聞いたマルテとともに、彼女の言う「本当の願いごと」とは何かを一挙に理解する。
そして、それがとても大切なものであることも。
けれども、それがなんであるかはやはり私たちは言えないのだ。
孔子さんは
吾が道は一を以て之を貫く。
と言い、弟子の曽子は「唯(い)」(「はい」)と応えている。
その曽子はそれを
夫子の道は忠恕のみ。
(先生のやってきたことは「真心と思いやり」だ)
と言っているが、孔子さんがその生涯を「一を以て貫」いてきたこととは、そんな具体的な言葉にできる何かではなく、孔子さんが持ち続けてきた「本当の願いごと」のことだろうと私は思う。
むろん、私に「一を以て之を貫く」などといったそのようなものはない。
あるとすれば、高校生の時この本を読んで以来、自分も「『本当の願いごと』を持っている人間でありたい」と思うということだけで、それも、こんな流れ星の降る夜などにふと思い出したりするだけのことなのだ。