閉塞前線
瞬時にそのざまとなったのでない
すくなくとも引返しのきかぬ
前提があり さらにその前提があり
前提においてわれわれのひとりずつがあり
そのうえで言逃れのきかぬ大前提が
すっくと立ちあがるのだ
― 石原吉郎 「前提」 ―
衆議院が解散になった。
そのことに別に言うこともないのだが、上の詩を載せておく。
現在の事態を、あたかも「瞬時に」そうなったかのように慌てふためいたり、あるいは今あるさまざまなものごとを近視眼的にしか語れない政治家しか持てない不幸を言いたいのではない。
そもそも政治家とは、常に「原因」を「直近」にしか求めない者たちの別名なのだから。
言いたいのは、どこに今の閉塞感をもたらしている「引返しのきかぬ前提」があるのか、立ち止まって考えてみよ、いうことだ。
たぶんそれは、この「時代の閉塞」をもたらしているものの本質をとらえるということなのだが、それを誰もしようとはしない。
あるいは、言わない。
あらゆる先進国の金利が限りなくゼロに近くなっているということは、私に言わせれば、まちがいなく世界が「資本主義という大きな時代」の終焉をむかえようとしていることなのだと思う。
にもかかわらず、そのことに誰もが気づかないふりをしているにいること、それが今の時代の閉塞感の本質なのだと思うのだが、むろん私が経済について何か述べるなどお門違いもはなはだしい。
では、こんな話はどうか。
天気図に「閉塞前線」、というものがある。
その閉塞前線とは、後から進む寒冷前線が前を進む温暖前線に追いつくことから生じる。
温暖前線と寒冷前線の間は、温暖な空気のなかにある穏やかな天気なのだが、次第にその穏やかで温暖な天気の区域の幅は後から追いかけて来る寒気のせいで縮まってくる。
たぶん現代において、その「寒気」が一番はじめに暖気に追いついた場所はバブルが崩壊した日本だった。
「失われた十年」とか「二十年」と言っているものは、ほかより早く「寒気」に追い付かれた日本の嘆きに過ぎない。
リーマンショック以降、世界中が日本と同じような閉塞に捉えられたのだ。
前線の南に位置していた中国やインドもやがてそうなるだろう。
歴史を見れば、いかなる華やかだった「時代」も、言ってしまえばすべてそのようにして閉じていった。
置き去りにしてきた冷たい気団がやがて暖かな気団に追い付き、次第にそれを狭めていったのだ。
もちろん、こんな比喩は「比喩」に過ぎないし、「比喩」で語るとはものごとを何も語ったことにはならないのだが。