やわらかい
すると狸の子はまたふしぎさうに
「だってぼくのお父さんがね、ゴーシュさんはとてもいゝ人でこはくないから行って習へと云ったよ。」と云ひました。そこでゴーシュもたうとう笑い出してしまひました。
― 宮沢賢治 「セロ弾きのゴーシュ」 -
明け方ヤギコが私の布団の中に入って来る。
枕元に気配を感じた私が、寝ていた体を横向きにかえて布団をすこし上げてやると、中にすべりこんできたヤギコは、背を私の胸に添わせる形で横になり、私の腕を枕にする。
彼女はやららかな喉と腹を私の手にあずけて眠る。
そして、そのとき何に満足してなのか、彼女はグルルル、グルルルと喉を鳴らす。
「背に腹は代えられぬ」という。
言うまでもないが、人にとって背より腹が大事なのである。
それは動物も同じことだ。
背は硬いが腹はやわらかい。
やわらかな腹は守らなければならない。
たとえば、もはや反抗しえないような圧倒的な暴力を受けるとき、人は背を丸めうずくまる。
そのような体勢をとるのは、硬い背中を盾にしてやわらかな腹部を守るためだ。
そもそも、普通背骨は腹部を守るように曲げることはできても、訓練した曲芸師か体操の選手以外、やわらかな腹部をさらすようなエビ反りは出来ないようにできている。
守るべきは腹なのだ。
男たちはだから、本来はやわらかいはずの腹部まで硬くしようとして腹筋までを鍛えたりする。
腹当てを持たぬ鎧は存在しない。
わたしたちはそう親しくない人に対してでも背中をぽんと軽く叩くことはできる。
しかし、体の前面である胸や腹にそうすることはできない。
人にそうすることをためらわせるものは、たぶん生物としての本能的禁忌なのだ。
たとえば、はじめて私の部屋にやってきた子どもたちがかたわらに座るヤギコにおそるおそる手を伸ばすとき、最初に触れるのは頭、もしくは背だ。
彼らはいきなり喉や腹に触ることはしない。
そんなことをすれば、この猫は噛みつくかもしれない。
そう思うのだ。
あえて相手のやわらかさに触れることは何かを犯すことだ。
そのことを私たちは知っている。
なぜなら、もし自身がそうされたら、それが私たちに不安を呼び起こすことだからだ。
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。
孔子さんに言われなくても私たちはそのことを知っている。
相手の身体のやわらかな部分に触れることは、相手からの許しがなければできないことだ。
けれども、無条件にそれを私たちにさらしてくるものたちがいる。
一つはペットと呼ばれる動物たちであり、そしてもう一つは小さな子どもたちだ。
ヤギコはいつも勉強している生徒たちのかたわらに腹をさらして寝そべっている。
その無防備な姿態は目の前にいる者が自分に何らの危害を与えないことに安心しきっている姿だ。
生徒たちはやがて誰もが彼女の喉を撫で、腹を撫でるようになる。
ヤギコはグルルルと喉を鳴らしてそれに応える。
小さな子どもたちもまた、大人たちにそのやわらかな部分に触れらることをけっして嫌がりはしない。
それどころか、彼らはそうされることを自ら求めるように、大人たちの胸や膝の上に飛び込んでくる。
そのようにふるまう動物たちや子どもたちが、その体全体で私たちに伝えて来ることは、私たちが「とてもいゝ人でこはくない」ということだ。
なぜ彼らがそう感じ思っているのかを彼らは言わない。
彼らにとって、私たちが「とてもいゝ人」であることは自明なのだ。
だからこそ、彼らは自分のやわらかさを、相手にいきなりさらして平気なのだ。
それは生物として本来とても危険なことだ。
けれども、不思議なことにその行為は相手の硬さをも解除してしまう。
現に、ヤギコの腹や喉を撫でる生徒たちの手の動きには、もはやはじめて頭や背を撫でたときのぎこちなさはない。
彼らはごく自然にごくやはらかに相手のやはらかさの上に手を動かしている。
相手がその最もやはらかな部分を私たちにさらしてくるとき、私たちは知らず知らずに身に付けていた自分の体の固さをゆるめてしまう。
それは、ふだん硬い背中で守って来た自分たちの中にある「とてもいゝ人」の部分を引き出されてしまうということでもある。
それは実は心地よいことだ。
人にとって自分が向き合っている相手から自分が「とてもいゝ人」であることを承認されるほど心地よいことがあろうか。
人がもっともくつろげるのは自分の最もやはらかな部分を安心してさらすことができるときだ。
今、人たちが好んで口にしたがる「癒される」という受け身の言葉が表していることの本質は実はそういうことなのだ。
自分が「とてもいゝ人」になることを許してくれるものを今の人はそう呼ぶのだと思う。
インターネットをはじめとするさまざまな通信手段が人と人のつながりをかつてない広がりでうながしている。
けれども、人に身体がある以上、人が心から求めているつながりとは身体を介した直接的な接触なのだ。
そしてたぶんそれだけが私たちを本当にやさしくしてくれるのだ。
小さな子どもたちや動物たちを見ていると、それがわかる。
平気で私の硬い膝の上にやって来たりょうせい君やあらた君にそんなことを思った。