おさるのジョージ
今さら悲哀も何も感じなかったが、頭を剃ったという事実は生理的に奇妙な感覚をあたえた。ツルリと頭部をなでて、顔面までなでおろしても全く頭と顔の区別がつかない。もはや全部が顔のようにスベスベして、髪の生えた頭部というものは消滅したのである。剃りたての頭部は、うき世の風になれない赤ん坊の皮膚のような、うす桃色のうす皮がういういしく張っていて、その中に詰まっている全知能はもはや髪の偽装に守られるすべもなく、はずかしげに収縮し、やがてあきらめて宇宙に身を委(まか)せてしまったように見えた。
― 武田泰淳 「異形の者」―
中原中也の未刊詩集の中に
(頭を、ボーズにしてやらう)
という詩がある。
頭を、ボーズにしてやらう
囚人刈りにしてやらう
というふうに始まる、ほとんど落書きのようなまったくたあいもないもので、これを詩と呼ぶべきかどうかわからないものであるが、熱の引かない朝が続き、起きるたびに汗でべたつく髪にうんざりしていた私の頭の中に、このたあいもない文句が毎朝鳴りはじめたのである。
頭を、ボーズにしてやらう
頭を、ボーズにしてやらう
ほとんどお経のようなものである。
さりとて、これも別に深い決意をもって思っていたわけではない。
ただのお経。
ところが、先週試験でやって来ていた女子高生たちに
「頭、ベタベタしてキモチワルイからボーズにしてしまおうかな」
などとついつい口走ってしまったところ、中の一人が
「あ、うちにバリカンあるよ」
などという思いがけぬ返事。
それでなんだか引っ込みがつかなくなり、昨日投稿された「断髪式」にあるような仕儀になってしまったのである。
それが先週の火曜日のこと。
なのに、こんな「大事件」をずっと書かずにいたのは、週末金沢に帰った時、この唐突なる、高校時代以来40年ぶりの坊主頭で勝田氏や司氏、邑井氏らの口をあんぐりさせてやろうとひそかにたくらんでいたからである。
ところが、体調不良、一向改善せぬゆえ帰れなくなった。
残念!
それにしても、私の髪を切っている娘さんたちの表情のたのしそうなことはどうです!
もちろん、カメラのこちら側にはそれを写している娘さんたちもいたわけで、わーわー、ワハハ、ゲラゲラゲラと私の部屋はたいへんにぎやかであった。
彼女らにとっては、完璧なるレクレーション活動、でしたな、これは。
まあ、周りの人々を笑顔にさせ、しあわせな気分にさせるのは、なかなか立派な「菩薩行」であるゆえ、ほとんど修行僧のような容貌になろうとしていた私にとっても本望でもあったわけだが。
でもね、頭を刈り終わった頃、カメラを構えていたアヤちゃんがつくづく私の顔を見ながら言うんです。
「せんせ、何かに似てるよね。
えーと、えーと、《おさるのジョージ》!」
《おさるのジョージ》がいかなるものか私は知らないが、いずれ「ほめ言葉」ではないことぐらいわかる。
みんなが笑っている。
「なんじゃ、それ!」
と言いつつ、頭を刈り終わって、はじめて鏡に対面した私の感想はといえば
「・・・・。」
これをあえて言葉にするなら
うーむ。
みたむなし!
ほかに言葉はない。
言うなれば、武田泰淳の言う「異形の者」そのものですな。
《髪の偽装に守られるすべもな》いむき出しの私がそこにいる。
これはなかなかにスゴイ。
というわけで、「坊主頭に関する哲学的考察」もいろいろやってみたのだが、そしてそれはなかなかにinterestingでもあるのだが、そんなことを書いてると話が終わらなくなる。
ところで、その日、夕方やって来た中学3年生のレイナちゃんは、たいへん苦しそうでした。
なにしろ、その日の彼女はずっとうつむいたきりなのです。
なぜって?
あなた、顔を上げると、そこに私の顔があるからに決まってるじゃありませんか!
もう、ひたすら机にうつむいて、問題を解いてる「ふり」をしている。
だって、そうしないとたいへんなことになる。
時折「禁」を犯し顔を上げたりすると、そのたびに思わず
ぷっ
と吹き出してしまうんです。
ですから、できるだけ顔は見ない。
なんと礼儀正しい子だ!!
けれども、そんなレイナちゃんに無視され冷たくされ、その日の私、たいへん淋しうございました。