糖衣の時代
きらきらと落暉(らっき)は入りてはしきやしシュガーコートの時代も過ぎつ
山中智恵子
私の部屋にいつも置いてある薬というのは《セイロガン糖衣A》というのが一つあるだけである。
子どもたちの中で下痢を訴える子がしばしばいるからである。
これは昔ただの「正露丸」だったのだが、子どもらが「くさーい」などと言うので、それならと「糖衣錠」にしたのである。
(そう言えば、ブッシュ君たちがいた頃、いたずらで「正露丸」を銀玉鉄砲のBB弾の代わりに詰めて撃ったバカがいて、部屋の中がまるで正露丸の工場みたいな匂いに満ち満ちたこともあった!
正露丸の黒い丸錠はBB弾と大きさは同じだったがやわらか過ぎてほとんど飛ばなかったのだが)
今回の風邪で私が医者からもらった薬はうがい薬を除いて5種類。
どれも皆ツヤツヤはしているが、別に甘いコーティングがしてあるわけではない。
苦くても私は大人なので飲むことができる。
というより、甘かったらむしろ気持ちわるく感じるかもしれない。
はてさて、病み上がりの週末、やれうれしやと椅子に腰を下ろしていたら、昼前から次々と高校生がやって来た。
試験前なのである。
各自持参した菓子なんぞを分け合って、まあくつろぎながらの、しかしまじめなお勉強である。
私の方はたいがいは椅子に腰を下ろしていればいいだけなので、別に疲れるわけではない。
そのうち夕暮になって、中の一人が
「あ、今日20日?先輩の誕生日だ!忘れてた!!」
と言って、メールを打ちはじめる。
その先輩はすでに部活をやめて、今は受験勉強に精を出しているらしい。
窓の外が夕焼けで赤くなっている。
引用の歌を思い出す。
中の「シュガーコート」という言葉を日本語にすれば「糖衣」ということになるであろう。
「はしきやし」は「愛しきやし」と書いて「いとおしい・愛すべき」という意味である。
歌は
キラキラと美しい夕日が落ちていくよ いとおしいなあ
ああ、あの可憐な愛すべき「シュガーコートの時代」も過ぎてしまったよ
と静かに嘆いている。
「シュガーコートの時代」。
すべてが甘い「シュガーコート」にくるんで与えられた時代。
たとえば今、目の前にいる高校2年の女子高生は年代的にまだその「シュガーコートの時代」の名残りの中にいる。
けれども、あと1年もすれば彼女たちもその進路の選択という形で「むき出しの現実」を直接味わわなければならなくなるだろう。
「シュガーコートの時代」。
それはまた、わたしたちの世代の者たちが過ごした20世紀の後半の日本をも指しているような気がする。
《3.11》を経験した今、自分たちがどれほど「甘くくるまれた時代」を過ごしていたかがわかる。
世は今やあらゆることを「自己責任」の名のもとに裁断しようとする。
社会を「万人の万人に対する闘い」の場であるとするホッブス流の世界観が世を覆い、そんな「むき出しの現実」こそが「現実」なのだと言おうとする者が幅を利かせる。
だが、本当にそうか。
「シュガーコート」が必要な者たちがいる。
子どもたちに苦い薬を苦いままに与えてはいけない。
甘いことに引かれて薬を飲んだ者も、その効き目を知ることによって、やがて、たとえ苦くてもその薬を飲むことができるようになる。
そのための「シュガーコート」だ。
社会もまた同じだろう。
どこかにむき出しの「現実」を「くるんでくれるもの」がなければ、どんなにかその社会は生きづらいだろう。
「糖衣」がなければ薬が飲めない者を嗤うものは、自分が気づかぬままに「甘くくまれたもの」を口にしていたことを忘れている者だ。
自分の「シュガーコートの時代」の過ぎたことを静かに嘆きながらも、今「シュガーコートの時代」にある者たちをひそかに祝福できる、そんな時代や社会がいいなと私は思う。
そういうものが時代と社会の「糖衣」なのだと思う。