「やる」自由・「やらない」自由
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広を着て
気ままなる旅にいでみん
― 萩原朔太郎 「旅上」 ―
試験が近いというので子どもたちが持って来た新しい公民の教科書を見ていたらこんなことが書いてあった。
次のA~I の九つの「自由」をあなたの大切なものの順に並べてみましょう。
というのである。
そのリスト、とりあえず載せてみる。
A 言いたいことを自由に発言する自由
B 行きたいところに行く自由
C 結婚相手を自分で選ぶ自由
D 読みたい本を読む自由
E 好きなものを食べる自由
F 働いて収入を得る自由
G 自分の興味あることを勉強する自由
H 信じたい宗教を信仰する自由
I 自分の就きたい職業を選ぶ自由
見れば、授業でやったのだろう、みんな教科書の所定の欄に自分のランキングが書きこんである。
私、おもしろがって全員の順位付けをのぞいてみる。
すると、やっぱりいるんだな、《好きなものを食べる自由》 なんてのを一番上にする奴が。
むろん男子。
「なんじゃ、これ」
と言うと
「いやいや、これ、絶対大事だから!」
とのたまう。
そうですか。
「肉、三日食えないとオレ死ぬから」
君ならそうかもしれない。
《結婚相手を自分で選ぶ自由》を一位に選んでた奴も男子だった。
「そんで、おまえがその相手に選ばれんかったらどうするんよ」
「そんときはそんとき」
いさぎよい。
女子の方は「F」とか「I」とかがその上の方に来ている。
なあるほど。
堅実だわ。
でもって、全員が全員、最下位に順位付けしてたのが「H」。
《信じたい宗教を信仰する自由》
日本人ですな。
宗教なんぞなんでもよろしいらしい。
・・・などとおもしろがりながら、でも、この九つの項目を「自由」として並べてみせたこの教科書はすこしヘンなのではなかろうか、と私は思ったりする。
ここに取り上げられた自由はどれも「何かをやる自由」だからだ。
すくなくとも公民で教える基本的人権としての「自由」の本質は、むしろ「何かをやらずにいること」の中にあるのではなかったか。
「自由」と言われるものの本質は「国家」と称するものやその他の「権威」から強制される何かを拒むところにこそあるはずなのだ。
たとえば、「国家」あるいはそれに準ずる何者かから
《信じたくもない宗教を信じることを強制されること》
を考えてみれば「信教の自由」というものが、われわれにとっていかに大切な権利であるかがわかるというものだ。
同じように、国家や権威から
《言いたくもないことを言わされること》
《行きたくもない場所へ行かされること》
《結婚したくもない相手と結婚させられること》
といったことが強制、または当然とされることの中でどれが一番いやか。
もし項目を並べるなら、問題はこのように立てて、子どもたちに自由を考えさせるべきものではないか。
抑圧のないところに自由を求める叫びなんて上がりはしない。
誰かに向かって右手を斜め上に伸ばして敬礼したり、旗に向かってお辞儀をしたり、エライ誰かに合わせて一緒に拍手をしたり、好きでもない歌を一緒に歌わされたり、そんなことをしなくても済むことを求める中に「自由」ということの最も基本があるものではないか。
だから、「自由権」という概念にとって、好きな番組をいつでも見られる「自由」より、見たくもないテレビを見ないでいられる「自由」の方がずっと大事なもののはずなのだ。
憲法が保障する「自由権」とは、自分にある種の行動を強制する「国家」やその他の「権威」への隷従を個人が拒否する権利だ。
けれどもそれは、けっして自分の周囲にいる人たちに勝手気ままにふるまう「自由」を保障したものはない。
人間が社会を営んでいる以上そんな「自由」はあったこともないし、これからもないであろう。
まして子どもたちにはそのようなものはない。
子どもたちが、母親から大きらいなピーマンを食べるよう言われ、授業で興味のない勉強を強いられるのは、自分の体と精神にとって本当に何が大事なものかが、彼らがまだ自分自身では判断ができないからだ。
好悪のみあって理性のまだ発達しない子どもには、言うまでもなく大人のような「自由権」は存在しない。
彼らが持っている人権とは、子供として周囲の大人に保護され、未来の大人として尊重されて、素晴らしい大人になっていく権利だけだ。
それに、すくなくとも、教科書にあるこんなアンケートじみたものに
「何がかなしくてわしがこんなもんに答えにゃあならんのよ」
と思えないうちは、まだまだ彼らは「自由」を主張するには遠いじゃなかろうかなあ。
もっとも、かく言う私だって、そんなひねたことを言いだしたのは高校に入ってからだったような気がするが。
なんだかんだ言っても、中学生は素直で従順なのだ。
大人と先生を信頼しているのだ。
それはさておき、本当に自由な社会とはすべての人が「やる自由」を持つ社会ではなく、誰かがあることを「やらずにいる自由」を認める社会なのではあるまいか。
すくなくとも何かを「やらずにいる」少数者に対して寛容な社会の方が風通しがいいに決まっている。
「何をやってもいい」自由の雰囲気とは、全体から何かを《思うこと》や《すること》を強制されることがない寛容の中にこそ存するのだ。