ヒガンバナ
ぼくは時時ベンチに坐って考え込む
あのこと を
ぼくはその時いつも
ぼ と く になってしまうのである
ぼ
が坐っていて
く
が立っていて
二人で口を開けて月を見ていることがある
― 藤富保男 「ふと」 ―
新聞をよんでいると朝の「ご近所パトロール」からヤギコが戻ってきた。
椅子に座った私の膝に跳び乗ったその背中に、まだ青いイノコヅチが二つ。
秋だなあ。
今日は朝から灰色の厚い雲が空をおおって、時折細かな雨が降ったりする。
本を一冊読み終えて、窓を開けてみたら、柿の木の下の一群れのヒガンバナが赤い花をつけていた。
お彼岸から十日も過ぎて咲くなんて、今年は秋が暑かったせいだろうか・・・などと思っていたら、ちがっていた。
そうだ、あの日もヒガンバナをおまえは目にしていたではないか!
あの日も十月の三日だったではないか。
忘れていた!
藤原君の葬儀の日、京成線の線路の土手にこの花が咲いていたのだった。
それを喪服姿のおまえは踏切のこちら側でじっと見ていたのだった。
あれから七年たったのだ。
七年たって、思ってみれば、今月一日の彼の命日には、そうとも気づかず、おまえは台風一過の青空を見ていたのだった。
はるかなるものみな青し
などと、うそぶきながら、藤原君のことなんかすっかり忘れていたのだった。
生きているということは、仕方のないものだ。
そして、他人であるということは仕方のないものだ。
忘れてしまっていた。
にもかかわらず、季節は巡ってくる。
巡り来て花を咲かせ、巡り来て果実を実らせ、そうやって、人が忘れていたことをやさしく思い出させてくれる。
そうやって、自分がその人を忘れていたことを思い出させてくれる。
それはとてもいいことなのだ。
とてもありがたいことなのだ。
ヒガンバナ。
別名、曼珠沙華(マンジュシャゲ)。
仏典によれば、この名の花は天上に咲く花だという。
法華経によれば、お釈迦様がこの経を説かれようとする時、無数の曼陀羅の花と曼珠沙華の花が雨のように降り注いだという。
そんないわれの花が今年も私の窓の下に開いた。
彼岸はどんなところか私は知らない。
誰一人向うに行った人で戻って来た人はいない。
けれども毎年秋なればこの国には彼岸花が咲く。
夕方のパトロールから帰って来たヤギコの背中がすこし濡れている。
また雨が降って来たのだ。
明かりをつけよう。
線香の匂いの少し残る部屋にもうすぐ生徒たちがやって来る。