つゆくさ
かへる日もなき
かへる日もなきいにしへを
こはつゆ艸(くさ)の花のいろ
はるかなるものみな青し
海の青はた空の青
― 三好達治 『花筐』 ―
朝、ごみを出しに外に出ると、隣家の庭の隅から、ツユクサが茎をのばして小さな花をつけている。
その小さな二枚の花片は、今朝の台風一過の青空よりも深い青だ。
三好達治の詩集『花筐(はながたみ)』は昭和十九年六月の出版と年譜にある。
達治四十四歳。
すでに太平洋戦争の戦局も傾いたころの詩集であるが、そこに戦の影は直接には見えない。
辞書によれば「かたみ(筐)」というのは竹で細かに編んだ籠のことであるという。
(たぶん「堅編み」が語源でありそれがつづまったものだろう。)
よって『花筐』というのは花を摘んで入れる籠である。
そこに収められた詩の形式はさまざまであるが、多くは、その詩集の名にふさわしい、一茎の花の如き四行詩である。
中に今日引用の詩も載っている。
「いにしへ」はむろん昔のことである。
「いにしえ」と現代仮名遣いで書けば分かりづらいが、文語表記に「いにしへ」と書けば、この言葉が昔の意を表すのが、その語の成り立ちによることがわかる。
すなわち、「いにし」は「いぬ(去ぬ・往ぬ)」の連用形「いに」に過去を表す助動詞「き」の連体形「し」が付いたもので、「へ」は「辺」で「あたり」を表す語である。
「去にし辺」。
したがって「いにしへ」は「すでに往ってしまってかえらぬところ」を指すことになる。
その「いにしへ=昔」を
かへる日もなき
と歌い出すのは、言えば、同語反復、に過ぎない。
けれども、昔を語って「かへる日もなき」の思いを持たぬ者がどこにあろう。
詩人はそのとき足もとの小さな青い花に目を留め、そこから一挙に
はるかなるものみな青し
と断言する。
そして、その例として
空の青 はた海の青
とあげて、体言止めで詩を終える。
端正に過ぎる、と言わば言え。
そのような詩が日本にあることを幸せに思う。
ところで、埴沙萠の『植物記』という本には「溶ける花」と題して、時間ごとに写したツユクサの一日の写真とともに次のようなことが書いてある。
ツユクサの花は、朝日がでるまえにひらく。
虫はこない。
雄しべが巻きあがって、雌しべに花粉をつける。
そして日がつよくなるとしおれはじめる。
花びらは、色があせたり散ったりしない。
溶けて紫色の水玉になる。
十五、六年前買ったこの本で、この記述を見た時、
ああ、そうなのか
と思った。
思ったのは三好達治の詩を思い出していたからだ。
この文の「ツユクサの花」の部分を勝手に「思ひ出」と読みかえていたからだ。
思ひ出に外部から「虫」は来ない。
それは自家受粉するしかないものだ。
それは現実の日ざしの中にしおれる。
けれどもそれは色褪せたり散ったりしない。
ただおのれの中で溶けて色ある玉となるしかない。