「杜」の由来
四人(よったり)の男たちは、てんでにすきな方を向いて、声を揃へて叫びました。
「こゝへ畑起こしてもいゝかあ。」
「いいぞお。」森が一斉にこたへました。
みんなは又叫びました。
「こゝに家建ててもいゝかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたへました。
「こゝで火たいてもいいかあ。」
「いいぞお。」森は一ぺんにこたへました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木(きい)貰つてもいいかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたへました。
男たちはよろこんで手をたゝき、さつきから顔色を変へて、しんとして居た女やこどもらは、にはかにはしやぎだして、子供らはうれしさまぎれに喧嘩をしたり、女たちはその子をぽかぽかなぐつたりしました。
― 宮澤賢治 「狼森(オイノもり)と笊森(ざるもり)、盗森(ぬすともり)」 ―
JR津田沼駅の南西に広がる畑地が住宅地に変わりつつあることは以前書いたことがある。
谷津、というのがその地名である。
「ヤツ」という言葉は「ヤチ」「ヤト」ともいい、関東では、低地、もしくは谷、を表す普通名詞である。
たとえば室町時代鎌倉公方の管領であった上杉氏の住居があった「扇ガ谷」という鎌倉の地名は「おうぎがヤツ」と読むし、一時大いに世間に名をはせた八ッ場ダムの「八ッ場」も、本来は「ヤツ場」=「谷ツ場」を表す地名であったものが撥音便して「ヤンバ」と読まれるようになったものであろう。
今は埋め立てによって海岸線は2キロほど退いてしまっているが 習志野市「谷津」も、かつては房総台地とそれに続く江戸湾の干潟がつくりだした低地帯を指す地名であった。
今の群馬、栃木である「上野」「下野」にしろ、そもそも都に近い方が「上」、遠い方が「下」になるのが昔の国名のつけ方であるにもかかわらず、房総半島の付け根の方が「下総」、半島部の遠い方が「上総」となったのは、葛飾以東の地があまりに低湿で道をたどれぬゆえ、三浦半島から船で直接たどり着ける市原辺りの地がかえって都に近く「上総」となったというくらい、ここいらは湿地帯が続いていたらしい。
さて、その谷津の畑地に姿を現しつつある住宅地一帯を「奏の杜(かなでのもり)」という町名に変更するという議案が先だっての習志野市議会で可決されたそうである。
そもそも町名変更というものが市議会で行われるものだということを今回初めて知ったのだが、それにしても「奏の杜」とは、なんじゃらホイ、と思っていたら、なんでも「奏の杜」はその地の開発している不動産業者がつけた名前であって、それに市が追随して町名まで変えてしまうことにしたらしい。
うーん、そうですか、「谷津」より「奏の杜」の方がオシャレですか。
それも《森》ではなく《杜》がいいらしい。
私にはよくわからんが、そこに移り住む人たちにはそういうものであるらしい。
なんだか『赤毛のアン』みたいですな。
彼女は自分のお気に入りの場所に次々とおとぎ話のような新しい名前をつけてよろこんでいたが、ちなみにそのときの彼女は11歳だった。
11歳の女の子がそうするのは十分かわいいのだが、大人がなあ・・・。
引用したのは賢治の童話集『注文の多い料理店』のなかにある、火山灰の降り積もった大地に人間が畑を開いて村を作るお話。
その中で男たちはそこに暮らすことへの承認を土地の森たちに求めている。
だが、今はもうだれも
「こゝに家建ててもいゝかあ。」
なんてその地面にすら聞きもしないで家を建てるようだ。
分譲住宅なので一軒一軒地鎮祭をやることもない。
地鎮祭というのは、単に新しく建てる家の安全を願うために行われるのではなく、むしろ、本来なら豊穣をもたらすはずの地面を、家屋で覆って日を遮り不毛にしてしまうことへの私たちの中の無意識の畏れから来ているのではないかと私は思っているのだが、そんな畏れすら今は忘れられてきているらしい。
「狼森」にも「笊森」にも「盗森」にもその名には由来があった。
そう「黒坂森」の大きな巌は語っている。
けれど「奏の杜」にはそれがない。
ないのにそう呼ぶのはアンの夢想と変わらない。
アンがさまざまな場所にばかげた名前をつけた時、大人であるマリラはそれを鼻で笑いたしなめたものだが、21世紀の習志野市議会はそれを承認した。
まあ、それでいいのならそれでいいが、なんだかヘンだなあと私は思う。