宿世
爾時常不軽菩薩。豈異人乎。
則我身是
爾時(にじ)の常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)、豈(あに)、異人ならんや。
則ち我が身、是なり。
(その時の常不軽菩薩が、どうして別の人間であることがあろうか。
まさしく今の私こそがそのときの彼であったのである)
― 「法華経」 常不軽菩薩品 ―
いろんなお話が「ジャータカ」という仏典に載っています。
言ってしまえば、子ども相手のおとぎ話のようなお話です。
とはいえ「ジャータカ」で語られるあまたの物語は、そこで出てくるものが人であれ、象であれ、鼠であれ、狐であれ、最後にはみな今日引用した「法華経」の文句のように、
豈、異人ならんや。
則ち我が身、是なり。
といったお釈迦さまの言葉で締めくくられる釈尊の過去世の物語なのです。
ところで、20代の頃、これらの話を大いにおもしろがって読んでいた私にもっとも印象深く残ったのは次のようなお話でした。
あるときお釈迦さまの足に木の棘が刺さって深く傷ついたことがありました。
弟子たちが尋ねました。
「世尊は何者も害することのできない悟りを得られた方でおられるのに、そのようなすぐれた方の足がこの世で傷つくようなことがなぜ起きたのですか」
すると、お釈迦さまは静かに目を上げてこんな話をなされました。
「遠い昔、大きな都城に二人の商人がいて大いに交易をおこなっていた。
あるときその二人は船を出して宝の島に着いた。
一人は欲心に目が眩んで船一杯に宝を積み大海に出たが、途中嵐にに遭って船がいまにも沈みそうにになった。
もう一方の男は適当な量を慮って宝を載せて船を出したので嵐の中でも無事に航海を続けていた。
船の沈みかけた男はその男に助けを求め、船に引き揚げてもらったが、その間に彼の船は宝もろとも海に沈んで行った。
助けられた男は、思った。
『同じく船を出して彼は宝を持って帰るのに、自分は何もかも失ってしまった。
どうして彼だけいい目を見るのだ!
そうだ、彼の宝も失わせてやろう』
そう思った彼は鉄の杖で船の底に穴を開け始めた。
助けた方の男はそれに気づいて言った。
『そんなことをしてはいけません。
そんなことをすれば、宝だけでなく私ら二人の命もなくなります』
けれども、嫉妬の心に燃えた男は聞き入れずなおも船底に穴を開けようとした。
船の持ち主である男は、いくらさとしても相手が忠告に従わないのを見て、ついに鋭い槍で彼を突き、殺してしまったのだ」
ここまで語ったお釈迦さまは言葉を切って、弟子たちを見まわしたあと、こう言いいました。
「おまえたちよ、遠い昔、海で商人を槍で殺してしまった男とは、いったい誰のことであろう。
余人ではない。
実に実にそれはこの私であったのだ。
その罪業によって私は生まれ変わるたびに、百年、千年と地獄の苦しみを受けてきた。
そして悟りを得たのちも、その残りの業は消えず、こうやって木の棘によって、かつて人を槍で刺した報いを受けているのである」
どうです、スゴイでしょ。
私、大笑いしました。
なにしろ、足に木のトゲに刺さることさえ「宿世の因縁」によるんですよ。
いかにいわんや、人の出会いをや!
さて、大笑いしたくせになんですが、実は私、かなりこの話には驚いたらしいのです。
ほかの過去世の物語はただおもしろがって読んでいただけなのに、奇妙なことですが、この話だけは深く心に残ってしまった。
で、それまでは
《袖触りあうも他生(多生)の縁》
(道ですれ違う時、お互いの袖が触れ合ったりするだけの相手でも、人が何度も何度も生まれ変わったその前世での縁があるからだ)
という言葉は知ってはいても、別に何とも思っていなかった私は、ひょっとして、ほんとうにそれは「本当のこと」なのかもしれないと思い始めたのでした。
昨日司氏から
「クーの命日 9・19」
とだけ書かれたメールが届いていました。
クーは彼の愛犬の名前です。
その犬が昨日死を迎えたのでしょう。
八月には、美樹ちゃんから同じく愛犬「ケーリーちゃん」の死を伝えるメールが届いていました。
(このケリーちゃんには私もずいぶん顔を舐められたものです。)
はてさて、と私は思うのです。
クー君と司氏、あるいは、ケリーちゃんと美樹ちゃんの過去世はどんなだったのだろうと。
それはまちがいなく「袖触り合う」だけの人と人との縁よりもずっと深い因縁だったにちがいありません。
私は時としてこんな想像をしたりしていたのです。
ひょっとして、これらペットと呼ばれる動物たちは、実は私たちの過去世においての父や母であったのかもしれない、と。
その過去世において、彼らが亡くなったとき、生きているとき受けた彼らからの愛情に何一つ恩返しができずにいた私たちの深い悔いの思いを知って、やさしい彼らは、この世でペットとして私らの前に現れて来てくれたのではあるまいかと思ったりしたのです。
そうやって、彼らはこの世で私らの愛を一方的に受けて入れてくれていたのではあるまいか。
そのようにして、私たちが遠い世で返すことができなかった彼らへの恩を今やさしく受けてくれていたのではないか。
なんと、生まれ変わってまで、やさしい父よ、やさしい母よ・・・などと思ったりしていたのです。
むろん、このようなことは「妄想」と呼ばれるものであるのかもしれません。
けれども、インドに始まる輪廻転生の物語が広く私たちの心に沁みて来たことには、やはり深い理由があったのだと思います。
すくなくとも私たちの父祖たちはそのような物語が生きている世界に生きてきました。
「この世」のほかに「あの世」があり、それは過去にも未来にも存在する。
そう思うことがごく自然であった世界がほんの少し前まで日本にもあったのです。
それはむろん「科学」では何一つ証明されることのない世界です。
けれども、現在が過去と未来の両方につながっているという思いは「この世」におけるさまざまな苦から私たちを解き放つなにものかであったのです。
それがなぜ私たちの「救い」になったのかを、私たちはあらためて考えるべきなのではないかと思うのです。
私たちが生きているこの娑婆(しゃば)世界は、目の前の功利にのみ目を向けねばならぬ世界です。
そして、この世界が今日ほどその近視度を進ませた時代はないのかもしれません。
ものの原因と結果を短い時間のスパンで考えることが「科学」であり、「合理」です。
けれども、それが本当の物事の「因果」なのでしょうか。
私の足にトゲが刺さるのは、本当にこの世の因にのみよるのでしょうか。
また生まれ変わり生まれ変わり、司氏はクー君に、そして美樹ちゃんはケリーちゃんにまた出会うことがあるでしょう。
そのときクーはどこかのお店のおばさんになっていて司氏にコロッケを一つサービスしてくれるかもしれない。
ケリーは近所のおじさんになって、幼い美樹ちゃんの頭を撫でてくれるかもしれない。
わからないが、そんなことはあり得るはずです。
バカバカしいが、でもそれはきっとあることなのです。
ところで、ヤギコと私の前世での因縁というのは、なんだったんでしょうなあ。
まあ、灯に向かって飛んで来て、下の金魚鉢に落ちたコガネムシだった私を、
「おやおや、バカだねえ」
とか言いいながら、水から出して逃がしてくれたおばあさんあたりが実は今のヤギコであったのではなかろうかしら、などと思っています。
さほどに、淡きこと水の如き私らの関係なのですが。
ともあれ今は、司氏のクー君のご冥福を心よりお祈りしております。