おかあさま
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
おかあさまと 馬車で行ったよ
― 北原白秋 「この道」 ―
高校生の時、ステレオを買ってしばらくしたころ、私は山田耕筰の歌曲集のLPを買った。
中に「この道」という歌も入っていた。
むろん知らない歌ではなかったけれど、そのときはじめてそれを「ちゃんと」聞いたのだ。
その何番目かに今日引用した歌詞があった。
私はびっくりした。
おかあさま
ソプラノは、たしかに、そう歌っていた。
曲が終わったとき私はもう一度その場所に針を下ろして聴き直した。
その箇所に来ると
あーあ そうだよーぉー
おかあさーまーと 馬車で行ーったーよー
ソプラノはやっぱりそう歌っていた。
私は呆然とした。
なんだか泣きそうになった。
そうか、自分の母親を「おかあさま」と呼ぶ、そんな家族もほんとうにあるのだ!
そう思った。
と、いえば分かりやすいだろうか。
だが、理屈があって衝撃があるのではない。
衝撃が来て、あとから理屈がそれを追うのだ。
理由などというものはいつだって「後付け」なのだ。
そして、人はいつだって、原因と結果を取り違える。
だから、うまくは言えない。
うまくは言えないが、それを聞いて、私は泣きそうになった。
それだけの話だ。
もっとも、こんなことが、ほかの人たちに共感されるとは思えない。
思えないが、ただ、こういったものが私の中の、中也が言うところの
山沿ひの道を乗手もなく行く 自転車
なのだ。ろうと思う。