乗り手もなく行く自転車
逝く夏の歌
並木の梢が深く息を吸って、
空は高く高く、それを見てゐた。
日の照る砂地に落ちてゐた硝子(ガラス)を、
歩み来た旅人は周章(あわ)てて見付けた。
山の端は、澄んで澄んで、
金魚や娘の口を清くする。
飛んでくるあの飛行機には、
昨日私が昆虫の涙を塗っておいた。
風はリボンを空に送り、
私は嘗(かつ)て陥落した海のことを
その浪のことを語らうと思ふ。
騎兵連隊や上肢の運動や、
下級官吏の赤靴のことや、
山沿いの道を乗手(のりて)もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ。
― 中原中也 『山羊の歌』 ―
夏の終りの高校の白く乾いたグランドにはほとんど人影もなく、運動場からすこし高くなったテニスコートの横に並んでいるポプラの樹の下で、水泳の練習を終えた私は空を見上げていた。
ただそれだけのことではあるのだけれど、そして、それがほんとうにあったことかどうか、それももうわからないのだけれど、たしかにそんな時間が昔、私にあったような・・・。
ただそれだけのことではあるのだけれど。
それにしても中也が語ろうとした
山沿いの道を乗手もなく行く / 自転車
とは、何の幻影であろう。
それを「ノスタルジー」と呼んでもいいが、そう言ってしまうことは詩から内実を奪い、それは結局はなにも語ったことにはならないだろう。
ただ、幻影というにはあまりにくっきりとしたそのイメージが、この詩を読んだときからずっと私の頭から離れずにいるばかりだ。
ひょっとすれば、歌人の前川佐美雄もまたそうだったのではないか。
昭和16年出版の歌集『白鳳』にはこんな歌が載っている。
人みながねむる真昼の野はらなれ乗りてなき自転車遠く過ぎたり