朝の読書
没落してゆく民族がまず最初に失うものは節度である。かれらは部分的なものを目標とする。目先のことにとらわれて、ちっぽけなつまらぬものに飛びつき、制約されたものを普遍的なものの上位におく。ついで、かれらは享楽と官能的な刺激をもとめ、隣人に対する憎悪と嫉妬を満足させようとする。
― シュティフタ― 「『石さまざま』の序」 (手塚富雄 訳) ―
今日は中学校の登校日なので、塾の夏期講習もお休みです。
ひさしぶりにのんびりした午前を過ごしています。
コーヒーを淹れた後、まだ日の射しこまない少し涼しい朝の部屋で読んでいたのは、シュティフターの小説でした。
おかげで、柄にもなく、今日の私は静かで清らかな気持ちでいます。
一八〇〇年代のドイツの作家であるシュティフタ―の小説は、今では岩波文庫にその幾冊の翻訳があるのでご存知の方もおられるかもしれませんが、若い頃の私はまったく知らない作家でした。
はじめて読んだのは40歳を過ぎた頃だったでしょうか、図書館で何気なく手に取った、たしか山室静の訳による単行本でした。
そこでは人を驚かすようなものは何も起きないけれど、簡素な筋立ての中にたしかに人生の中にあるはずの美しい何ものかをそれは示しているようでした。
その後、彼の小説を見つけるたびに読んでみると、そこにはやはり同じものがありました。
要するに、私は彼の小説を読むたびに、静かだけれど幸せな気分になったのです。
彼に描かれた世界では、自己の領域を無理にはみ出そうとする人物は一人も出てきません。
彼らの多くは、遠く山々が見える、小川や泉のせせらぎが聞こえる森の中で静かに暮らしています。
時間はあきれるほどゆっくりと流れ、日々は単調ではあるけれども、確かな充実をもたらすものとして描かれます。
そこでの恋もまた、激越な感情の高ぶりとしてではなく、ゆたかな実りを約束する祝福として語られるのです。
それは一九世紀のドイツ人が描いた一つの静かな理想郷です。
勝田氏と電話で話しているとき、
「あなたのこの頃の文章には三日とあけず「アホ」だの「アホウ」だのの単語が出てきますなあ」
と言われてしまいました。
「それは、よくないことですよ」
たしかに、それはよくないことでした。
あやうく、昨日もそれを口にしそうだった私は、すんでのところで昨日の「通信」を「ゴミ箱」にほうりこみました。
(今日の引用は、若干その気分が反映しているものとして読んでください)
シュティフタ―はけっして小説の中で教訓を垂れたりはしません。
けれども、彼はまちがいなく、人間に美しい魂があることを信じているのです。
そんな文章を朝から読んで、私の今日はいい一日になりそうです。