凱風舎
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避暑法

 

 人間の歴史を三〇〇万年とすれば、二九七~二九九万年間を、人間は石を打ち割って刃をつけた打製石器を主要な道具として生きたのである。

 

 ― 佐原真 「手から道具へ・石から鉄へ」(『道具の考古学』)―

 

 金沢から帰った日、新幹線を上野で降りた。
 せっかく東京に出たのだから、どこかの美術館にでも寄ってから帰ろうと思ったのだ。
 けれども、駅舎を出ると日がカンカンと照る二時過ぎの公園は暑く、結局私がさまざまな特別展を開催している美術館ではなく、何度も行ったことのある博物館の常設展へと足をむけてしまったのは、この暑さの中、人々の熱(いき)れの中で絵を見る気力がなくなってしまっていたからだった。

 背負っていたバッグをコインロッカーに預け、さしたるあてもなく『日本美術の流れ」と題された展示室を回りながら、私は何かものたりない気がしていた。
 その一番はじめにあるべき土偶や埴輪がないのだ。
 係の人に尋ねると、それは本館ではなく、平成館というところに展示されていると言う。
 私は教えられるままにそちらに向かった。

 閑散とした展示室にはいると、あの有名な遮光器土偶が正面にあって、思わず頬をゆるめてそれに近づいてしばらく眺めたあと、ついでにそこに並べられたその他の土偶も見終えて、ふと振り返ると、入口の壁に沿ったガラスの向こうに石器類が展示されていた。
 まあ、とりあえず、という感じで私はそちらに向かった。

 石器なら小学校の職員室の前にも近くの丘の畠から出て来たという石斧の類がいくつも並べてあったものだ。
 見慣れているはずだった。
 にもかかわらず、その石器たちを前にして私は実は驚いたのだ。
 それは、さっきまで見ていた「日本美術」といわれるものとは、まったく異質のものだったからだ。
 すくなくとも「美術」と呼ばれるものは、たとえそれが道具として作られていようと、どこかに「見られること」を意識したものがその中にあったのに、そこに並べられた石器たちにはそのようなものはカケラもなかったのだ。
 かつて、森の木を倒し、土を掘り、獲物を仕留めるために、人々が打ち欠き、削り、磨いた道具に、人の目に媚びるような要素はほとんど入る隙間もないのだった。
 思えば、それはあたりまえのことかもしれないが、そんなことに気付いたのは迂闊にも今回が初めてだった。
(これらの石器類と同じような感覚を与えたものは、或る展示室に置かれていた刀剣と槍身だけだった。
 ひたすら人を殺傷するためにだけ作られたそれら武器もまた博物館に展示された他の「美術品」とは異質の凄味があった。
 私は石器を見た後、その展示室にもう一度出かけて、そのことを確認してみた。
 石器と同じく、刀剣類のほんとうの意味がわかったのも迂闊ながら今回が初めてだった。) 

 昨日図書館で借りて来て今日読んだ佐原真氏の本に、上に引用したような一文があった。
 あのとき博物館で何が私を驚かせたのか、分かったような気がした。
 人はあのような石塊(いしくれ)だけを頼りに、何百万年という年月、命をつないで来たのであった。
 それは、あり得ないほどに細細と頼りない生存ではなかったか。
 思えばせつないほどのそのような道具で祖先たちがつないだ命があって今の私たちがいる。

                

 相変わらず暑い日が続く。
 アホウに満ち溢れたこの世はますます暑い。

  をみな等(ら)も涼しきときは遠(をち)を見る 

 中村草田男にこんな句がある。
 逆もまた真である。
 遠くを見れば男たちだって涼しくなれる。
 たとえば「宇宙」がそうであるように、「遠く」を思うこともまた心を涼しくさせる。
 石器を見ながら、遠い遠い昔を思うこともまた一つの避暑法だろう。