「現在形」しかなかった日々
今は最早、私は知ってゐる。青春とは、常にこの類の一幕喜劇の一続きである。
― 井伏鱒二 「休憩時間」 ―
勝田氏によれば、昨日投稿された「過ぎ去りし日々」という写真は、高校での文化祭の際、彼が撮ったものなのだそうである。
けれども、それが何年生の時の文化祭なのかは不明だとか。
まあ、あの三年間は私を含め、ほとんどみな同じような顔をして過ごしていたような気がするので、私にもよくわからないが、私の背の高さがまだ中橋君と同じくらいでしかないところをみると、ひょっとすればこれは一年生の時のかもしれない。
ちなみに、あの写真、一番右にいて、ノート型パソコン風の板(いったい何の板なのか、本人にもさっぱり不明)を手にしているのが、わたくし、テラニシヒロシであり、その隣で俯いているのが、先日帰郷の際、一緒にお酒を飲んだ橋本忠明君である。
まん中の帽子姿が、学生服のボタン穴のすべてにボタンの代わりにタンポポの花をつけていたことのある中橋玉一君。
四人の前に一人しゃがんで笑っているのが、当時のリングネームでいうと「ガーデン・丹羽」君。
そして左端でさわやかな笑顔でほほえんでいる好青年は、・・・・残念ながら何という名前の青年か記憶にありません。
いずれにしても、私、はじめて見る写真です。
高校の文化祭などに、「主体的に」、あるいは「積極的に」関わる、などということを、ただの一度もしたことのない私にとって、これがいかなる状況で写されたものなのか、何の記憶もない。
けれども、勝田氏のおたよりに添付されていた「過ぎ去りし日々」を聞きながら、私のところにもメールで届いた写真を大きくして眺めておりますと、なんとも言えぬ気分になってまいりました。
自分が写っている写真を評して、こんなことを言うのはまことにおこがましいのですが、たとえば青春の明るい愚行の数々を描いていた映画の、その最後の場面がストップモーションになり、次第にその色を減じてモノクロームとなって、そこに音楽が流れてくる・・・そんな映画のラストを観ているような気分にさえなったのでした。
まあ、それにしても、ここに並ぶ青年たちはみな未来しか持ってないではありませんか!
というより、彼らは実に未来すら持つ必要がないほどに充実した現在を生きているように見える。
自分がいつかは六〇歳になるなんてことなど夢想だにせず、こんな夢のような日々がいつまでも続くと思っている。
たぶん、そういうのを青春というんでしょうし、そういう青春をまちがいなく自分も過ごしていたのだということを思い出させる写真を見せてもらうのはたいへんありがたいことです。
ところで、この日の勝田氏は、まさかこの汗臭くむさくるしい私たちを撮るために、わざわざカメラを持って学校に来たんじゃあないでしょうな。
かの時、彼にもまた、すばらしい青春があったようです。