手紙
自分に命令しないものは
いつになっても、しもべにとどまる。
― ゲーテ 「温順なるクセーニエン」(高橋健二訳) ―
ずっと、本を読まずにいた。
このところ、昼間は眠って、夕方と夜明け前、水泳のテレビばかり見ていた。
いろいろ思うことがあるのだが、思うだけでなかなか書く気にならない。
というか、書いてみるといかにも他愛ない。
そのうえ、引用の文句だって思い浮かばない。
・・・・というわけで、ノートをひさしぶりに開いてみたら、上のような言葉が書いてあった。
そうであった。
私は自分に命令しなければならないのであった。
「ちゃんと毎日《通信》を書け!」と。
私はどうやらテレビの「しもべ」であったらしい。
テレビというのはつけるのは簡単だが消すのはなかなかむずかしいものだ。
それにしても昨夜はいいお月さまだった。
夜中目を覚ましたら、部屋の奥の壁が妙に明るいので、「おや」と思ったら、開け放った窓から月の光が射しこんでいるのだった。
夏の月は冬の月よりずっと低いところを通るのでこんなに部屋の奥まで射しこむのだ。
蕪村に
月天心貧しき町を通りけり
という句がある。
この「月」は、仲秋の月、解釈するのが普通なんだろうが、私は、この句
月天心
と聞くだけで、高々と上った冬の月だと思ってしまう。
皓々とした冬の月の照る「貧しき町」であろうと思ってしまう。
そこを通ったのが月だったか私だったか、いずれにしろ、冷え冷えとした冬の夜だからこそ、この句の情趣は深い、というものだ。
それにひきかえ、夏の月は貧しき町に住む者の開け放たれた戸口から部屋の奥までも射してくる。
射してくる、といえば、こんな歌もあった。
カーテンのすきまから射す光線を手紙かと思って拾おうとした 早坂 類
それはほんとうに誰かからの「手紙」であったかもしれない。
なぜなら「手紙」はそれを待ちのぞむ者には思いがけぬ形で届くものだから。
そして、私が昨夜目にしたそれもまたそうであったかもしれない。
私も
自分に命令しないものは
いつになっても、しもべにとどまる
というそんな声を、誰かに言ってほしかったのかもしれない。