《脱力》力
遅くともこの世紀(二十世紀)の前半を見ると、西洋人は女性の乳房と足を性的に恥ずかしい部分として隠し、日本を含む島嶼アジアには両方についてそういう感覚はなかった。ところが、世紀後半にはいると、島嶼アジアは乳房についての羞恥心を受けいれて隠すようになり、逆に西洋は足についての禁忌を捨てて素足を露出するようになった。
― 山崎正和 「世界文明史の試み」 ―
梅雨は開けたのではないらしいが、今日はすてきに暑かった。
さいわい今日は日曜であり、さればこそ、このような日はまさにビールのための日と言うべき日であって、私はスーパーで買ってきたアジフライを肴にビールを飲みつつテレビで囲碁を見ていたはずなのであるが、いつの間にやら眠ってしまって、気が付いたら、テレビは「ニャンちゅう」になっていた。
外はもちろんまだ明るいが、それでも一日の終りの風情が西の空にあって、開け放たれたドアと窓を昼間よりは涼しい風が吹き抜けてゆく。
なんだか、いい気分だ。
久隅守景という人に「夕顔棚納涼図屏風」という絵がある。
江戸の初めの頃の絵である。
国宝。
日本の国宝に指定された絵が何点あるのか私は知らないが、これは、中でたぶん一番国宝らしくない絵だろう。
要するに、イバッテない、のである。
画面の右側には粗末な家があって、その横に夕顔のまあるい実が成った棚がある。
その下に蓆(むしろ)を敷いて、男が片肘をついて腹ばいになっている。
男の横には腰巻一枚の女房、男の背中には小さな男の子がいる。
一家で夕涼みをしてるんですな。
三人とも同じ方に目を向けているんだが、何を見ているのかわからない。
画面の左の方はほとんど何も描かれてなくて、その上にはぼんやり大きな月が出ている。
そんな絵。
なんだよ、こんな絵、と思うかもしれないが、実は私、高校の日本史の資料集に出てくる中でこれが一番好きな絵なのである。
西洋の絵画には「聖母子像」とか「聖家族像」というジャンルの絵があるが、私に言わせれば、これは日本の「聖家族」を描いた絵なんです。
この絵は、西洋のそれのようにキリリともしていないし、後光も射していないし、神々しくもない。
だらりととだらけている。
けれども、なんて幸せそうなんだろう。
後光は射してはいなけれど、でも、さっきも言ったように、のぼったばかりの大きなお月さまがぼんやり彼らを包み込むように出てる。
これはやっぱり「聖家族」なんじゃないかなあ。
なんてことを思い出したのは、今日の夕暮の風があんまり気持ちがよかったからで、暑い暑いとは言っているが、日本の夏もワルクナイんじゃないか、なんて、ゆっくりと暮れてゆく空を窓から眺めながら思っていた。
日本はアジアのモンスーン地帯の端にあって、夏はだらけるしかないような暑さと湿気なんだけれど、だらけるしかない夏があるというは、ひょっとしたら、とてもすばらしいことなのかもしれないと思ったりした。
ますます人をせわしなくさせていく21世紀を救う思想は、モンスーン・アジアから生まれるそんな「脱力力」かもしれない。
今日の引用はこの屏風絵の中の腰巻姿の女房からの連想。
そういえば、私らの子供の頃は、おばちゃんたちはだあれもブラジャーなんてしてなかったし、みんなシュミ―ズ一枚でいたものだったなあ。
ちなみに、この本によれば、儒教色の強い中国や朝鮮といった大陸アジアはむしろ西洋に近い身体観を持っていたらしい。