コップが割れちゃいました
罪のない人が苦しむとき、その感受力には、いわば、犯罪が感じとられているのだといっていい。(中略)。罪なくして苦しむ人は、自分を苦しめる加害者の真の姿を知っているが、加害者の方は知らない。(中略)。犯罪者において感じとられていないものが、犯罪なのである。
― シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』 (田辺保 訳)―
「せんせ、コップ、割れちゃいました」
そう言ってしまって、流しに自分の使ったコップを洗いに行っていたアオキ君がテラニシ先生にひどく叱られたことがある。
「アオキ、もういっぺん言ってみい」
そのとがめるような調子に、アオキ君は何のへんてつもないそのコップがそれほど大事なものだったのか思ったが、言われるままにすこし小さな声でアオキ君はさっきの言葉を繰り返した。
「コップ、割れちゃいました」
「アオキ、それを英語で言うてみな」
妙なことを先生が言うので、アオキ君は部屋の入口で突っ立ったまま黙っていると、
「おまえ、もう受け身は習ったろう」
と言う。
「はい」
「ならば、The glass で始めて、英語で言えるだろ」
「The glass ・・・・was broken・・・」
「アオキ、コップは自分で割れたのか」
「いいえ」
「じゃあ、最後までちゃんと言ってみろ」
「The glass was broken by me.」
「そうじゃ。できるやないか。
じゃあ、こんどはもういっぺん日本語で正しく言ってみろ」
「ぼくはコップを割ってしまいました」
「そうじゃ。これからはこんなことがあったときはちゃんとそう言え」
「はい」
アオキ君は座り、いつも通りの授業が始まった。
もう20年以上も前の話である。
言うまでもないが、私たち日本人は日本語でものを考えている。
その日本語は
「コップが割れちゃいました」
という言い方を許す言語である。
本来他から為された他動詞的行為を、その目的語にあたるものが、あたかも自分の意思を持ってなしたかのように自動詞を使って語ることを許す言語である。
言うてしまえば、誰かがこぼさなくても、お茶は勝手に「こぼれ」てしまう国なのである。
だから、
「お茶はジムによってこぼされた」
などという、中学時代、英語で初めて「受身形」を習ったときの、その奇妙な訳文に違和感を感じなかった日本人はいなかったはずだ。
「なんじゃ、この 《by ほにゃほにゃ》ちうのは!」
そう思わない日本人はいない。
そんな国では、卵が「割れちゃう」みたいに、たぶんは原発も、なんだか自分とは関わりのないものによって「壊れて」しまうのだろう。
日本人は、英語をはじめとする西洋の言語のように、「だれが」「何が」という、行為の主体をはっきりさせねば気が済まない言葉では考えない。
「by・・・」をまじめに考えない。
日本語で受け身を表す助動詞は「れる・られる」である。
しかしこの「れる・られる」には四つ意味がある、ということになっている。
曰く 「受け身・可能・尊敬・自発」。
このなかで「自発」というのは「自然とそのように感じられる」とか「思われる」ということをさす。
「夕暮れになると故郷のことが偲ばれる」
なんてときの「れる」である。
たぶん英語ならこんなときにも無生物主語を立てて
「夕暮れが私をして故郷のことを思わしめる」
とかなんとか言うのであろうが、日本語は茫漠とした何かによって自然にそう感じたと言う。
日本語では、あるものにそれを為さしめた主体を曖昧なままにする言葉が「受け身」と同じ形をしている。
あるいは、それは、日本語という言語が、あえてそれを為した行為の主体を曖昧にしてしまう言語だと言うべきだろうか。
はてさて、日本は責任の所在と原因の追求がいつもあやふやな国であると言われる。
70年前の戦争の責任は本質的には誰も負おうとはしなかった。
公害にしろ重大な事故にしろ、何一つ、その行為の主体が本当に責任を取ったことがなかった。
「まことに申し訳ありませんでした」
そう言いながら組織の上層部が一列に並んで頭を下げている光景が、われわれからウソくさく見えるのは、そこに並んだ者たちが誰一人、本当の当事者とは思っていないことが私たちにわかるからだ。
あすこに並ぶ誰もが、実は、事故も不祥事も「なんとなく」「自然に」発生してしまったかのように思わせる「日本語」でものを考えている。
そのことが私たちには見えてしまう。
レイテ沖で戦死した伯父のことを私は
「伯父は戦争で死にました」
と言う。
同じことを英語では
My uncle was killed in the war.
と言う。
大津市の自殺した中学生は「死んだ」のか、それとも「was killed」なのか。
「in the school」なのか、それとも「by ・・・」なのか、それはしらない。
「in・・・」にしろ「by・・・・」にしろ、、「・・・」の部分に、はたして自分は入っていないのかと真摯に問うてみる大人はいなかったらしい。
彼らにとってその子は「なんとなく勝手に」死んでしまったらしい。