凱風舎
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独楽

 

 ああ 風見がまはってゐるね
 帰らぬものたちのためにまはってゐるね
 本日晴天の旗のしらべは
 流れるあの白い雲のためだ

 

 ― 窪田般彌 「独楽」 ―

 

 いったん止まったものをもう一度動かし始めるには大きな力がいる。
 静止摩擦が動摩擦より格段に大きいのはなにも物理の世界に限るわけではない。
 こんなささやかなブログでさえ、休止をすれば、その再開にはふだん以上の力がいる。

 けれど、その「再起動」に苦しんでいる私なぞ、世間から見れば笑止にすぎぬだろう。
  何を考え込んでいるのだ!
  早くまわせ。
  まわし始めれば、それはまたすぐに日常に変わる。
 そんな声が私たちを追い立てている。

 思えば、世の中のあらゆるシステムはまるで独楽(こま)のようだ。 
 まわりつづけなければ倒れてしまう独楽のように、目に見えぬ惰力を力にまわりつづけている。
 そして止まりそうになれば、再びそれをまわしつづけようとする一本の紐がある。
 その紐を持って立っている者の姿は誰にも見えない。
 あるいは見ようとはしない。

 

 習志野と船橋の間にある谷津干潟は幅10メートルほどの水路で海につながっている。
 海辺の生態系をはぐくむこの干潟も、もしその水路が閉じられたなら、腐臭に満ちた汚泥の集積に過ぎなくなるだろう。
 潮が引き、泥だけとなった干潟に石を投げ込んでも、さざ波すら立たない。
 けれども、水路さえつながっていれば、やがて潮は満ち、今日のように風のきれいな日には、そこに立つ白鷺の細い脚にさえ細かな波ができる。 

 大切なことは水路を開くことだ。
 その場所をわずかな風にさえ波立つものに変えていくことだ。

 私もまたそうあらねばならない。
 それがたとえ「独り楽しむ」ためのものであったとしても、水路さえ開いていればすくなくともそこに小さな蟹くらいは養うことはできるだろう。
 それは、自分は他の者たちのために必要なのだと思い込んで、外部からの水路を閉ざし、自らが堪えがたい腐臭を発していることにすら気付かずにいるどこかの電力会社、どこかの政党、どこかの学校や教育委員会よりはずっといいはずだ。