健やかなる時も病める時も
悲しくなる時には、うるさ屋の細君を愛している従順な夫があることを思い出しなさい。
そんなことはまっぴらだが、もし病気することがあったらすばやく私のところへ飛んでおいで。
私は君を看護してあげる。
では、君に接吻する。―――――私のことをおぼえていておくれ。
きみの修道司祭 アントニイ
― チェーホフ 「妻への手紙」 (湯浅芳子 訳)―
人は昨日と同じ今日があると思っている。
今日と同じ明日が来ると思っている。
すこしの変化はあるだろうが、おおむね変わらず日々は続いてゆく。
そう思って人は暮らしている。
もちろん、今日とちがう明日はあるだろう。
それどころか、人は明日を夢みて昨日までの日常を捨て去るときもある。
進学、就職、結婚。
若者はいまある日常を、あるとき脱ぎ棄ててゆく。
彼らは旅立つ。
旅立つ者とは、いつだってここよりも彼方が、今日よりも明日がよりよいと信じる者のことだから。
その変化は劇的だろう。
しかし、それはみずからの意思で選択した変化だ。
その中で、たとえ思いがけぬことが起きたにしても、それはいわば「覚悟」というものの範囲の中にある。
人は、そうして得た新たな環境の中でも、また繰り返される何かを手にする。
そのような繰り返しの中で、はじめの緊張はいつしかほどけ、やがて日々はゆるやかに移ってゆくようになる。
そうやって人は日常を取り戻す。
昨日と同じ今日があり、今日と同じ明日がある。
日々のささやかな事件に彩られながら、けれども、毎日は穏やかに流れてゆく。
周りにはいつもと同じ家族、いつもと同じ友だち、同じ仲間。
けれども、そうではない変化が不意に人に訪れる時がある。
不意に?
そう、不意に。
あたりまえに思っていたことが、あたり前ではなくなる時が来る。
昔生徒だったH君の奥さんが脳梗塞で突然倒れたのは先月の半ば過ぎだった。
42歳。
まだまだ若い。
中学二年の男の子を頭に、小学2年生と年長組の女の子がいる。
その日、事情を告げて長男が塾をお休みすると伝えてきた彼の声はとても冷静だった。
むしろ、それを聞く私の方が動転していたくらいだ。
おおかたは意味をなさない言葉ばかりを言っていたような気がする。
「おかあさん、集中治療室を出たよ」
その男の子がすこしうれしそうに私に告げたのは彼女が倒れてから五日ほどたった塾の日だった。
けれどもまだ意識は戻らずにいた。
「ときどき目は開けるけど、でも、ずっと、眠ってる」
彼はそう言っていた。
先週の土曜日、H君から電話があった。
まだ、口はきけないのだけれど、意識が戻ったという知らせだった。
手を握って
「わかる?」
と聞くと、手を握り返してくるのだという。
なによりだった。
「それにしても、おまえ、しっかりしとるなあ!」
私がそう言うと
「テラさん、何言ってんですかぁ。
俺がしっかりしなくて、いったい誰がこの家族支えるんですかぁ!」
その通りだ。
その通りだけれど、やっぱり、父さんはエライ。
H君はエライ!
電話が終わった後、病室での二人のことを思った。
握った手を握り返してくる妻の手を感じた時の彼の思いを思った。
私は夫婦のことはわからない。
わからないけれど、それはただごとではない、人と人との結びつきなのだ、ということはわかる。
夫婦とは、その二人以外、誰とも分かち得ないものを積み重ねてきた、まったく特別な二人なのだ。
いわゆる「赤い糸」は、けっしてはじめから二人に結ばれているわけではないのだろう。
それは、むしろ二人が共に暮らす中でしだいに太く二人の間に紡がれていくものなのだ。
十六年前の彼らの結婚式で
健やかなる時も、病める時も
という、牧師の問いに素直に「はい」と答え、誓い合っていた二人のことを、今思い出している。