悪意
おそらく気まぐれな狩猟家か悪戯ずきな鉄砲うちかが狙ひ撃ちにしたものに違ひありません。私は沼地の岸で一羽の雁(がん)が苦しんでゐるのを見つけました。雁はその左の翼を自らの血潮でうるほし、満足な右の翼だけ空しく羽ばたきして、水草の密生した湿地で悲鳴をあげてゐたのです。
― 井伏鱒二 「屋根の上のサワン」 ―
昨夜子どもたちが帰った後、ただならぬ鳴き声が聞こえてきました。
それは全体に濁点を加えたような「にゃあー」という鳴き声が連続したもので、まちがいなくヤギコのものに違ひありません。
それがヤギコのものであることがわかるのは、彼女がふだん何事もない時にすら、何を思うてか、そのような声をあげつつ帰ってくることがたびたびあったからです。
したがって、かのオオカミ少年がそうであった如く、彼女の声に含まれていた
《緊急事態発生!》
の痛切な叫びは聞いている私には正確には伝わってはいませんでした。
「まったくぅ。どした、どした。相変わらずうるさいなあ」
などといつものようにぼやきながら、やおら私が椅子から腰をあげてドアに向かった時、けれどもすでに鳴き声はドアのところで止まることなく窓の下の小さな軒へと移っていました。
表面にトタンを張られたその軒はやはらかな猫の忍び足をもってすらわずかに音を立てるのですが、今回はバタバタという異様な物音を伴っていました。
鳴き声は相変わらずです。
私はあわてて窓のところに戻りました。
窓から下を覗き込む私に向かって彼女は顔中を口にして鳴き叫びながら、窓の手すりの鉄骨に手を掛けて上にあがって来ました。
そのヤギコの右後肢は何やら板状の物に捉えられています。
何ならん。
部屋に入って来ても鳴くことをやめない彼女の肢を捉えていたものは鼠捕り用の強力な粘着剤を塗布した大学ノート程の大きさの段ボールでした。
なんたること!
私はすぐにその板を彼女の右後肢から引き剥がしました。
そのときヤギコはギャッと叫びました。
それほどまでにその板は彼女の肢にべったり貼り付いていたのです。
そして気が付けばこんどは力を込めた私の右手の親指にそれは貼りついたのです。
いやはや、なんたる粘着力!
それは、かののどかなる明治の御世に漱石の猫が思わず「猫じゃ踊り」を踊ってしまったという雑煮の餅どころの騒ぎではありません。
こいつは石鹸のごときで単簡に洗い落とせるようなヤワではないのです。
なにしろ、それは餅とちがって、「これに触れたものはけっして逃さない」という悪意のみをもって塗布されたものだからです。
とはいえ、このようなベタベタな手で何ができましょう。
私はたわしをもってそのベタベタをこそげとりました。
さて問題はヤギコです。
手を洗いに立った私に駄々っ子のように鳴き(泣き)ながらついて来たヤギコを風呂場に入れて洗ってやっても無駄なことは私の手ですでに実証済みです。
しかし、彼女の右後肢全体は粘着剤にまみれて汚れ、その一歩ごとの部屋の床にそのおすそわけまでしています。
これははさみで毛を刈りとるよりほかに方法はなさそうです。
しかしまあ、なんということでしょう、はさみを一回入れるごとに、粘着剤のせいではさみは切れなくなるのです。
それを拭き取り拭き取り、それでもなんとか彼女の体毛についた汚れだけは取ったのですが、肉球のそれは手でこそげとるしかありません。
でも完全ではありません。
彼女の肉球からそれが完全に取れるにはあと三,四日はかかりそうです。
鳴き疲れたのでしょうか、彼女はそのまま眠ってしまいました。
かわいそうな、ヤギコ。