それがどうした
凡(およ)そ其(その)人博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文地理の事に至ては企及ぶべしとも覚えず。また、慇懃(いんぎん)にして、よく小善にも服する所ありき。その教法を説くに至ては、一言の道に近きことあらず、智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり。
― 新井白石 『西洋紀聞』 (村岡典嗣 校訂)―
高橋克己容疑者は麻原彰晃の写真や本を持ち、留置場では「蓮華座」を組んでいるという。
はたまた麻原のことをいまだ《尊師》と呼んでおるらしい。
それがどうした、と私は思うのだが、どうやら、それを報道する人たちはこのことを、トンデモナイこと、と思って言うておるらしい。
私に言わせれば、小沢一郎が放射能を怖れて地元東北に足を踏み入れないことの方が国会議員としてよっぽどトンデモナイことだと思うのだが、そのことに触れるテレビはない。
先日の新聞によれば、テレビがそれを報じないのは、小沢氏を支持する国会議員からテレビ局に「報道するな」との脅しがあったからだそうだが、まあ、この国の報道ジャーナリズムの質について今さら驚くほどのこともないからそれは言わない。
ところで麻原彰晃が何を言うたか私は知らない。
興味もない。
けれども彼には言う自由があり、権利がある。
すくなくとも人権思想が自明の理として受け入れられている近代国家においてはそうである。
彼が裁かれたのは彼の為した行為に対してであって彼の思想によってではない。
そして、高橋克己氏にもそれを信じ続ける自由があり権利がある。
彼が裁かれるのもまた彼の行為に関する所であって彼の信ずるところにおいてではない。
およそ、信仰などというものは部外者から見ればばかげているものだ。
今日引用した『西洋紀聞』の中で、新井白石は、当時鎖国の国禁を犯して大隅国の海島にやって来たイタリア生まれの宣教師ジュアン・シドッチ(ヨワン・シロウテ)を江戸で尋問したとき、その天文地理科学技術の博聞強記に舌を巻き、またその進退挙措の礼にかなっていること、人として信ずるに足る人物だと思わせるに十分と感じさせるのに、こと信仰のことになると、一言も理屈に合ったことは言わず、
「エホバという、この天地を造ったお方がおられるんですよぉ!!」
なんてことを本気で信じているバカバカしさに呆れかえって、
一人の人間の中にまるで賢い人間と大バカ野郎が二人いるみたいだ
(智愚たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり)
と言うている。
その人の信じていることが、部外者にとって馬鹿げて見えるのは何もキリスト教に限らない。
南無阿弥陀仏を唱えれば極楽へ行ける、などというのも信ぜぬ人には世迷い言であろうし、妙法蓮華経に無限の功徳があると信ずるのも、よそ様から見れば随分奇妙なものだろう。
中国の人たちが死んだ者に持たせるのだと赤い紙で作った銭を燃やすのも、ヒンドゥ教徒があのように濁ったガンジスの水に沐浴するを至上の幸せと思うというのも、私らから見れば、「なんだかなあ」と思えてしまう。
とはいえ、社会生活を営むとき、各人が信じていることは、それを他者に押し付けたりしない限り、さしたる障碍にはならない。
そんなお節介を好んでやったのは歴史上ほとんどキリスト教徒だけで、たいがいの宗教は、それがかけ離れていればかけ離れているほど、内心は知らず、すくなくとも相手の信じていることをあからさまに否定することはしてこなかった。
そのようなことを言い立てれば、社会生活にしろ、交易にしろ、お互いにギスギスとして物事が円滑に進まないからだ。
日本のことわざに《イワシの頭も信心から》と言う。
これは、一方で、つまらないものを信じている者への揶揄をも漂わせながら、他方、イワシの頭のようななんだかわけのわからないものでもそれを信じる者には神仏のような霊験をもたらすものだ、という、いうなれば、それぞれの人が持つ「信仰」というものへの敬意をも表していることわざである。
他人の信じていることにあえて口出しせず、それへの敬意を持つことは社会生活を送る人間としての知恵であり礼儀である。
信仰のもたらす喜びや平安はその人にしかわからぬ極めて個人的なものである。
ある事柄がその信仰の「霊験」とか「奇跡」かどうかもまたその人の受け取りようであろう。
ある事柄が奇蹟として起きるから信仰があるのではなく、信仰があるからある事柄は奇蹟になるのだ。
無縁の者にとっては単なる偶然に過ぎぬ出来事としか思えぬことも、信ずれば「奇跡」となる。
私たちはそれをひそかに(あるいはおおっぴらに)嗤うことはできても、その「信仰」が私たちに実質的な被害をもたらさない限り、それに非難を加え、指弾することは為すべきではない。
高橋容疑者が、私たちから見れば、「あな、むくつけ!」としか言いようのない麻原彰晃の写真を持っていたっていいではないか。
言うてしまえば、それが、彼にとっては、悪鬼を追い払うために節分の夜にヒイラギの枝に刺す「イワシの頭」だったのだ。
はたまた彼が「蓮華座」を組むことに何の文句があろう。
それは禅宗の坊さんたちが日々修業に組む座禅のことではないか。
一方を非難し一方をよしとする程の差がどこにあろう。
とにもかくにも、彼はそのような「信仰」を持ちながら、「一般市民」としてわれわれにまぎれて何の違和感も抱かせぬ生活を17年間してきた男である。
そのことに何の非難を向けるべきことがあろう。
信仰がその内にあって外部に何の害をもたらさなかったこと、毎朝神棚に水を捧げて社会生活を行う人たちと何の違いがあろう。
彼や菊地容疑者に罪があるなら、それは彼らの為したことに対してあるのであって、彼らが抱く「信仰」にあるのではない。
そのことは忘れぬ方がいいと思う。