おもんぱかり
「遠き慮(おもんぱかり)のみすれば、必ず近き憂(うれひ)あり。」
― 中島敦 『悟浄出世』 ―
先週塾に遅れて来た3年生のユウキ君に「どした」と問うと
「友だちとイオンに行って、おやつを買ってた」
と言う。
「おやつ、って、修学旅行のか」
「うん。1500円分!」
なかなか元気である。
元気であるが、修学旅行は今週末、その日からは十日も先のことである。
それにしても1500円分のおやつはいかにも豪勢である!
彼によれば、
「集会で先生が必要なものはなるべく早く準備するように言ってたから」
ということらしいが、だからといって、それは、けっして、おやつのことではあるまい。
「おまえ、そんな早くから買っておいたら、どうせつまみ食いいしてなくなるじゃろうが」
「大丈夫!」
自信満々である。
自信満々であるが、十日後の旅行のおやつを買うような奴のおやつが、十日間も大丈夫なはずがない。
少年の己を知らぬこと、その塾の先生とかわらない。
で、今週
「そういえば、ユウキ。おまえ、ちゃんとおやつ残ってるのか」
と訊くと、小さな声で
「500円分くらい」
と言う。
やっぱり!
「だって、お姉ちゃんが『わー、なつかしい!』とか言って食べちゃったんだもん」
まるで「野生の王国」であるな、おまえのうちは!
チーターの仕留めたインパラを横取りするハイエナはいるのである。
もっとも、この「野生の王国」ではチーターの方もハイエナのお相伴にあずかったらしいが。
彼のお姉ちゃんは大学一年生で、たしか幼児教育を学んでいるはずだが、「幼児心理学」のレポートだけはいいものが書けそうである。
というわけで
遠き慮りなければ、必ず近き憂いあり
とは孔子さまの有り難い教えであるが、ユウキ君にはむしろ、中島敦の『悟浄出世』の中で、ナマズの化け物「虯髯鮎子(キュウゼンネンシ)」が、本当の自分を求める沙悟浄に垂れる今日引用した教えの方がふさわしいようですな。
遠き慮のみすれば、必ず近き憂あり
何事も、「ほどほど」が一番いいようで。
ついでながら、ユウキ君は今日また、足りなくなった分の「おやつ」を買いに行くそうです。
ところで、私、「慮」という字は
おもんば(ba)かる
と読むものとばかり思っておりましたが、三年ほど前、高校生に漢文をエラソーに教えておりましたところ
「先生、教科書には、これ「おもんぱ(pa)かる」とふりがなが付いてますよ」
と指摘されました。
「ふん。そんなパカな日本語があるものか!」
と言いつつ大きな天眼鏡で見てみたら、でも、たしかに「は」の字の右上についているのは、「”」ではなく「〇」。
濁点、ではなく、半濁点。
しかし、こんなところにP音があろうとは!
あなたがた、知ってました?
どう慮ってみても「おもんばかる」でしょう。
うーん、パカランものです。