また、潮が上げてきようぜ
本町通りは、ほとんど全滅といってよかった。ブック・エンドを、不意に外した書籍のように、家々は倒れ、傾き、道路は、砕けた瓦と、壁土と、絡まった電線と、あらゆる塵芥で、埋められていた。しかも、その堆積物は無残に泥水で濡れ、下駄や、樋(とい)や、また漁村でなければ見られない、舟道具などが散乱していた。(中略)川は、黄色い濁流を、滔々と漲らせ、川上に向かって逆流していた。私は、相生町が地震のみならず、海嘯(つなみ)にも見舞われたことを、直覚した。
「また、潮が上げてきようぜ」
「いや、もう心配あろうまい」
倒れた家の中から、家財を運び出している人々が語り合っていた。
― 獅子文六 『てんやわんや』 ―
「ゆとり教育」というのが見直しをされ、中学生の地理の教科書も新しくなった。
それまで、
いくらなんでも、これのどこが地理の教科書なんだ!
と、いうくらい軽視されてきた、日本や世界の地形・気候・産物、あるいは個々の国々の国勢といったさまざまの常識的知識をようやく中学生は学ぶことになった。
おかげで列島を縦に分ける「フォッサ・マグナ」、横に走る「中央構造線」という二つの大地溝帯の名前も彼らは覚えなければならなくなった。
それはたいへんよいことである。
社会というものは、人々によって共有される経験と知識によって形成されるものだ、ということを、文科省の人たちは忘れてしまっていたのだ。
その共有されるべき基礎的知識を子どもたちに与えることよりほかに「社会科」を教える意味がどこにあろう。
もちろん、「ゆとり教育」時代でなくても、みずから「ゆとり学習」をしてしまった人たちもいる。
(特にこの塾には!)
というわけで、塾の先生らしくちょいと説明しておけば、西日本の地図を見た時、紀伊半島を西に流れる紀ノ川と、紀伊水道をはさんでそれに向かいあう形で四国を東流する吉野川を結ぶ一本の低地帯が目につくが、それは「中央構造線」と呼ばれ、東は諏訪湖でフォッサ・マグナと交わって房総半島ヘ連なり、西は愛媛県から豊後水道に細長く伸びる佐田岬を通って九州熊本へと抜ける。
この大断層系に、多くの活断層群があることはいうまでもない。
などということをあらためて書いてみたのは、大飯原発の再稼働の準備が始まった日、次の稼働は四国電力の伊方原発であると新聞が報じていたからである。
獅子文六などといっても、今の人たちにはピンと来ないかもしれないが、昔は本屋さんの文庫の棚にたくさん並んでいたものだった。
それが文庫の目録から消えていったことがその文学的評価によらないことは、今書店の棚に並ぶ文庫本の質を見ればわかるが、どれでも一つ彼の小説を読んでみれば、かつての日本の文学がどれほどの豊かさと余裕を持っていたかはすぐにわかることだ。
ところで、年譜によれば、彼は昭和20年(1945年)12月伊豆湯河原から、妻の実家のある愛媛県の岩松町というところに再疎開した。
それは戦後の混乱の中で逼迫する食糧事情や住宅事情、あるいは自身の著作に関しての戦犯訴追へのおそれによるものであったが、小説『てんやわんや』はこのときの経験をもとに、戦後の日本のありようを描いたもので、今読んでも、その節度ある文体による正確な描写は、その底にある批評精神に裏打ちされた上質のユーモアを醸し出して実に楽しい。
さて、その中に、今日引用したような部分が出てくる。
これは
「私は平凡な人間で、才能、勇気、学問――男性の装飾となるべきものを、相当欠いている。」
と自称する主人公犬丸順吉が山奥にいる美少女を訪ねた日に出くわした地震に、あわてて疎開先に戻ったときの描写である。
日本史の年表によれば1946年12月にM8.0の南海地震が起きている。
これはそのときの愛媛西部の様子である。
地震が起き、そして津波も来ている。
地図で見れば原発がある伊方は先ほど書いた中央構造線の上にある佐田岬にあって、そこから20キロばかりのところである。
おい、おい、本当に大丈夫なのかい!
そう思ってしまう。
おもえば大飯原発が建つ若狭湾も、伊方原発がある佐田岬もリアス式の海岸である。
これらに限らず、原発施設の写真を見ればその多くは、そのような地形に建っている。
リアス式海岸とは、そもそもが土地の沈降によって生じた地形である。
そのような地形とは、もともと地殻活動が盛んな場所なのではないのか、と、私なんかは思ってしまうがちがうのだろうか。
「また、潮が上げてきようぜ」
と言えば
「いや、もう心配あろうまい」
政府並びに経済界、そして電力関係の人たちはそう言う。
だが、ほんとうにもう心配はないのだろうか。