テージョ川
テージョ川は わたしの村を流れる川よりも美しい
でも テージョ川は わたしの村を流れる川ほど美しくない
テージョ川は わたしの村を流れる川ではないから
― アルベルト・カエイロ 「詩集 羊飼い」 (『ペソア詩集』 澤田直 訳編)―
夕方テレビをつけたら、リスボンの街が映されていた。
美しい街だ。
「リスボンはテージョ川の河口にできた街です」
とナレーションがいう。
《テージョ川》という名前の川なら私は知っている。
昔、フェルナンド・ペソアの詩で読んだことがあるから。
けれども、テレビに映されたその川は私が思っていたよりもずっと大きな川だった。
それは、そうだろう。
かつて大航海時代の幕を開けた港が、その河口にあった川なのだ。
大きいに決まっている。
映像を見ながら、私は自分の世間知らずを思わず笑ってしまった。
私が「川」と聞いて思い浮かべるのはいつでも金沢の犀川なのだ。
たぶん、それが私が最初に「世界」を考えるときの「スケール」なのだろう。
いい、わるい、ではない。
そういうものなのだ。
もちろん、その「スケール」は修正されるが。
ついでだから、ひさしぶりに開いたペソアのテージョ川に関する詩の全文を以下に載せてみる。
テージョ川は わたしの村を流れる川よりも美しい
でも テージョ川は わたしの村を流れる川ほど美しくない
テージョ川は わたしの村を流れる川ではないから
テージョ川は大きな船を浮かべている
そのうえ ないものを見ることができる者には
テージョ川には
大きな帆船の記憶も運航する
テージョ川はスペインから流れ来たり
ポルトガルの海に注ぐ
誰もがそれを知っている。
でも わたしの村を流れる川が
どこへ行き
どこから来るのか 知るものはわずかだ
よりすくないひとのものだから
わたしの村の川のほうが ずっと自由で偉大だ
テージョ川を通ってひとは世界へと向かう
テージョ川の彼方にはアメリカがある
運がよければ 財宝がある
わたしの村の川の彼方に
何があるのかなどと 誰も考えたことはない
わたしの村の川は何も考えさせない
川岸にたたずむ者は ただそこにたたずむだけ
なんだか一見「反グローバリズム」の詩みたいですな。
でも、これはもっと根源的なことを示唆しているのでしょう。
たとえばそれは、《テージョ川》のところに女優の名前を入れて
〇〇は わたしの妻よりも美しい
けれども 〇〇は わたしの妻ほど美しくない
〇〇は わたしの妻ではないから
なんていうふうに置き換えてみればわかることかもしれない。
(と、まあ、こんなこと、妻を持ったことのない私が言うことでもないのですが)
とはいえ、念のために言っておけば、映画に出てくる女優がそれでもやはり美しいように、テレビに映ったテージョ川は、ポルトガルの真っ青な空を映した美しい川だったことは言うまでもありません。